グラシ内の建造物とは? わかりやすく解説

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グラシ内の建造物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/30 16:15 UTC 版)

グラシ (ウィーン)」の記事における「グラシ内の建造物」の解説

旧市街土地飽和状態で、長年渡り土地不足慢性化していたが、城壁の外には広大なグラシ土地広がっていたため、これを建築用地に利用しようという動きはかなり前から出ていた。皇帝フランツ2世グラシ外側の縁の土地現在のレッセルパーク公園付近)に建築許可出し1816年-1818年帝王ポリテクニック研究所k.k. Polytechnisches Institut、現在のウィーン工科大学)が作られた。ドイツ語圏で初の工科大学であった1809年フランス軍により城壁一部ブルク稜堡三角堡爆破処理され、そのがれきは1816年から1819年にかけて軍のウィーン工兵隊により撤去された。破壊された旧・ブルクトーア城門は、1821年から1824年にかけて、ルイージ・カニョーラとピエトロ・ノービレの設計により、ホーフブルク宮殿前面へと少し押し出す形で「外側のブルクトーア城門」(Äeres Burgtor)として再建された。これにより広い空間(後のヘルデンプラッツ広場)が生まれ、その両脇フォルクスガルテン庭園ブルクガルテン庭園Burggarten当時皇帝庭園)が作られると、これらの敷地全体外縁部にも新たな城壁建設された。これはわずかながらも市域の拡張起きたことを意味し奇しくもここに中近世以来初めて、都市面積旧市街面積)の拡大実現される格好になった。 エルトベルク・グラシのドナウ運河船着場の北側には、1840年から1844年にかけて、建築家パウル・シュプレンガーの設計により、帝王室中税関庁舎(k.k Hauptzollamt)が建設された。同じ建物には、帝王官房租税庁(k.k. Cameral-Gefällen-Verwaltung)と帝王室中書籍検査庁(k.k. Central-Bücher-Revisionsamt)も入っていた。現在は、ヒンテレツォルアムツシュトラーセ通り4番地(Hintere Zollamtsstraße)に連邦計算機センター置かれている。 ラントシュトラーセ・グラシ内で、ウィーン川ドナウ運河合流点東側には大規模な小麦販売所存在したが、1852年取り壊され、4600㎡の土地競売かけられた。市の建築マイスターのアントン・エールツェルトが敷地買い取り、8棟の賃貸住宅建てた。現在は「連邦政府庁舎・ラデツキーシュトラーセ」となっている。 1850年代初頭軍事省(Kriegsministerium)では兵器庫フランツ・ヨーゼフ兵舎建設工事に伴う多額資金を必要としていた。1853年9月、軍のウィーン工兵隊グラシをテュルケンシュトラーセ通り(Türkenstraße)までの100メートル分、南方ずらして拡張し、これによって生まれたベルクガッセ通りとテュルケンシュトラーセ通りの間の土地区画付けて売り出した。この地域はノイ・ウィーン(Neu-Wien、「新しウィーン」)の名称で呼ばれた1853年2月18日皇帝フランツ・ヨーゼフ1世暗殺未遂事件発生した。弟の大公フェルディナント・マックス(後のメキシコ皇帝マクシミリアン1世)は、兄が無事に難を逃れたことに対し、神への感謝奉納建築奉納=Votiv<ヴォティーフ>)としてヴォティーフ教会(Votivkirche)の建設着想した。グラシはなお、軍事上の建築禁止区域となっていたが、1855年10月25日フランツ・ヨーゼフ1世はこれを許可する同時に1856年2月25日グラシ建築禁止遡及的廃止する決定下した1856年ヴォティーフ教会工事開始された。 1858年から始まった城壁撤去市域の拡大リング通り開設により、グラシ消滅した。パラーデプラッツ広場1870年まで存在したが、1870年7月1日、その敷地都市拡大基金(Stadterweiterungsfonds)が買収し議会市庁舎大学新たに建設した。軍の練兵広場はシュメルツ地区現在の15区)へ移転した。 現在、グラシ様子往時の状態で伝えるものは現存していない。リング通り沿いに見られる緑地1858年以降整備されたものである。かつての城壁要塞部分からは道路名などに残っているものがあるものの(例えば、メルカーバスタイ、シュトゥーベントーアなど)、グラシにちなん名づけられた交通路は現在は存在しない。ただし、現在のHintere Zollamtsstraße道路)、Am Heumarkt(広場)、Technikerstraße道路)、Museumsplatz(広場)、Landesgerichtsstraße道路)、Auerspergstraße道路)、Berggasse(道路)は、19世紀には「アム・グラシ」(Am Glacis、「グラシ沿い」)の名称が付けられていた。

※この「グラシ内の建造物」の解説は、「グラシ (ウィーン)」の解説の一部です。
「グラシ内の建造物」を含む「グラシ (ウィーン)」の記事については、「グラシ (ウィーン)」の概要を参照ください。

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