ガーフィールドの苦闘と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 04:20 UTC 版)
「ガーフィールド大統領暗殺事件」の記事における「ガーフィールドの苦闘と死」の解説
ガーフィールドは意識があったが、ショックを受けており、駅の上の階に運ばれた。弾丸の1発は体内に留まっていたが、医者はそれを見つけられなかった。息子のジェイムズとジェイムズ・ブレインは取り乱して泣いていた。ロバート・トッド・リンカーンは本当に動転しており、その父(エイブラハム・リンカーン)の死を思い出して、「この町ではどれだけ多くの時間を悲しみの中で過ごしたことか」と言った。 ガーフィールドはホワイトハウスに連れ戻された。医師たちは今夜は持たないだろうと告げたが、大統領は死ななかった。まだまだ意識がはっきりしていた。翌朝、生命兆候は良好であり、医師たちは回復を期待し始めた。長い寝ずの番が始まり、ガーフィールドの医師たちは速報を定期的に発行し、アメリカの大衆は1881年の夏の間常に追い続けることになった。その容態は不安定だった。熱が上がったり下がったりした。ガーフィールドは固形食を胃におさめておくように努力したが、その夏の大半はほとんど食べられず、流動食のみになった。 病人をワシントンの暑さから解放するために、海軍の技師がエア・コンディショナーを拵えた(近代的なエアコンの初期の装置のひとつである)。大きな箱に入った氷の上でファンを回して冷えた空気を病室に送った。この装置がうまく働いて、気温を20度F(11度C)下げることができた。医師たちはガーフィールドの傷を消毒していない汚れた指や器具で探り続け、当てずっぽうで弾丸の場所を見つけ出そうとした。アレクサンダー・グラハム・ベルはガーフィールドの体内に留まっている弾丸を探すという特別の目的のために金属探知機を発明したが、ガーフィールドが寝ている金属枠のベッドのために誤反応を起こした。金属のベッド枠はこの頃比較的稀なので、この装置の誤作動の原因は当時分からなかった。 7月29日、ガーフィールドは闘病中に唯一度閣僚達と面会した。閣僚達は医師から動揺させるようなことを議論してはならないと厳しく諭されていた。ガーフィールドは感染症のためにその数週間で病状が悪化しており、その心臓を弱らせていた。熱と激痛のためにホワイトハウスで寝たきりになっていた。吐き気を抑えられず消化が苦痛になっていたので、200ポンド (90 kg)以上あった体重が135ポンド (60 kg)まで落ちていた。敗血症と感染症が進行し、短期間幻覚を見るようになった。 9月6日、ガーフィールドはワシントンの暑熱を逃れるためにニュージャージーの海岸に移されたが、これは新鮮な空気と静穏さが回復を助けるかもしれないという淡い期待からであった。ガーフィールドは海岸や大西洋が見える窓の前にベッドの上で支えられていた。新しい感染症が進行し、狭心症の痙攣が起こった。敗血症と気管支の肺炎に続いて、強い心筋梗塞あるいは脾動脈瘤破裂のために、1881年9月19日月曜日午後10時35分、ニュージャージー州ロングブランチのエルベロン(英語版)地区で死去した。49歳10か月。狙撃から死までの80日間で行った公務は、1通の犯罪者引渡し書に署名したことだけだった。 大半の歴史家や医学の専門家は、ガーフィールドを治療した医師たちがもっと有能であったら、ガーフィールドは生き残れたと信じている。何人かの医師は消毒していない指を傷口に入れて弾丸を探り、ある医師などはそうしている時にガーフィールドの肝臓に穴を開けた。肝臓は人体の中で再生できる数少ない器官の一つなのでこのことだけが死をもたらしたとは言えない。しかし、この医師はおそらく連鎖球菌を大統領の体内に持ち込んでおり、それが当時は抗生物質が無かったために敗血症を引き起こした。 チェスター・アーサーは、19日の夜にガーフィールドが死んだという報せをニューヨークの自宅で受けた。最初にその報せを受けた後で、アーサーは、「私は、神よ、それが誤りだと期待している」と言った。しかし、電報による確認が直ぐに到着した。アーサーは、ニューヨーク最高裁判所判事の取り仕切りで、就任宣誓を行い、続いてワシントンに行く前に弔問のためにエルベロンに向かった。ガーフィールドの遺体はワシントンに移され、議事堂のロタンダで2日間安置された後に、クリーブランドに移されて、9月26日に葬儀が行われた。
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