オーガスタ皇太子妃とジョージ3世の時代
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「キュー宮殿」の記事における「オーガスタ皇太子妃とジョージ3世の時代」の解説
フレデリック皇太子はホワイトハウスに付属する庭園にも手を加え、1751年に「雨と雹に濡れながら園丁たちの仕事ぶりを丸一日眺めた」末に風邪から肺塞栓症を併発、危篤に陥った。残されたオーガスタ皇太子妃は遺児たちとホワイトハウスに住み続け、亡夫の志を継ぐように庭を作り替えていく。皇太子の友人で第3代ビュート伯爵に叙されたジョン・スチュアートにより、イギリス庭園の最高の権威に数えられるウィリアム・チェンバーズ卿に紹介を受けた。 亡くなったフレデリック皇太子の妹のうち、アメリア王女はおそらく1730年代から1740年代にダッチハウスに住んだが、1751年にリッチモンドパークのレンジャーを拝命すると、地所内のホワイト・ロッジに住居を構える。ダッチハウスはというと、その後、王女の子息ジョージ王子(長男・将来のジョージ3世)とエドワード王子が学ぶ場所に使う計画が実現し、教育係としてビュートとチェンバーズを雇い入れた。ジョージ3世の立太子は1760年、その1年後にドイツのメクレンブルク=ストレリッツ家からシャーロットを妃に迎える。1762年から1783年の間に15人の子どもを儲け、手狭なため夏の離宮のリッチモンドロッジに移ることになる。 造園家のチェンバーズは1761年から翌年にかけて、オーガスタ妃のためにキュー宮殿にオランジェリーとパゴダを建てる。妃は1760年代後半、もっぱらカールトン・ハウスを住まいにしてキューの庭を日常的に楽しむことはなかったものの、名目上はダッチハウスとホワイトハウスの女主人であった。オーガスタ妃が1772年に没すると、ジョージ2世は夏の別荘としてホワイトハウスで暮らし始め、リッチモンド・ロッジは取り壊してしまう。ホワイトハウスにはカナレットの作品の数々など自らの美術品コレクションを運び込ませた。近くに住んだゾファニー作「ウフィツィ宮殿のトリビューナ」(美術品の間)もそのひとつである。 ジョージ王が王子たちの学び舎に決めたダッチハウスは、年かさのジョージとフレデリックが使い始めると「プリンス・オブ・ウェールズの家」(皇太子の住まい)または「プリンス・オブ・ウェールズのかつての住まい」と呼ばれる。ただし王位を継承したジョージ4世は、幼いころからここで暮らしたことはない。王子や王女がごく小人数でキューグリーン Kew Green に滞在し、1771年から1772年頃の水彩画を見ると、数名の子どもとともにダッチハウスの敷地で過ごす女性が描いてある。地元出身のシャーロット・フィンチ夫人 Lady Charlotte Finch が女官長を務めたと考えられる。 ポール・サンドビーの水彩画に基づく銅版画(原画は1771年から1772年頃の作品)。テムズ川畔からの眺めには遠景のダッチハウス、近景に遊ぶ王家の子女が描かれ、付き添う人物は女官長のシャーロット・フィンチ夫人。 1897年の宮殿の写真。(左)1804年にジョージが収容された旧召使い棟の廃墟。(右)トンピオン日時計の本来の設置場所。 古い地図(1771年)はダッチハウスとテムズ川の間の地所を、リチャード・レヴェット卿の孫でリンカーン法曹院法廷弁護士を務めたレヴェット・ブラックボーンの所有地と記している。これは1781年10月13日まで、代金2万ポンドで自由保有権を購入したジョージ3世のみが建物と敷地を借用したことを指す。その7年後、ジョージ王は「狂気」を初めて発症し、1788年11月から1789年3月にかけてホワイトハウスに留まる。シャーロット王妃と王女たちは、ダッチハウスの「男性執事の間」と上階で暮らした。その後、ホワイトハウスは手入れをせずに荒れるに任せたものの、王の次の発作が1801年に現れるとまた収容し、王妃と家族はダッチハウスに入居して王の快復を待った。ホワイトハウスは翌1802年に取り壊し、3回目の発作に襲われた1804年、王はダッチハウスの旧翼棟の平家建てに移され、おそらく本館1階にも暮らしたと考えられる。王妃と王女たちは本館1階と2階に部屋をとった。
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