オリエント文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:04 UTC 版)
古来から人類は高いものへの憧憬や畏敬の念を抱いてきた。古代から中世にかけての塔状構造物にはメソポタミアのジッグラトや古代エジプトのピラミッドやオベリスク、さらに中世の教会堂の鐘楼などがあるが、これらはいずれも石や煉瓦を塊状に積み上げた塊状構造である。 塔の歴史は監視塔や宗教塔から始まったといわれている。 イェリコの監視塔 確認できる世界最古の塔は死海の北方約9kmに位置する古代都市イェリコにあった監視塔である。イェリコは紀元前8000年頃の世界最古の集落とされており、約4haの面積に人口約2000人が生活していたとされている。イェリコは年間を通じて温暖で豊富な湧水から食料資源も豊かであったため、周辺の平原や山岳地帯に暮らす未開民族の標的にされていた。そのためイェリコでは住居群の周囲を石造りの防御壁で囲み、防御壁の内側には監視塔がたてられていた。集落跡には現在でも直径10mほどの円塔が9mの高さまで残存しているが、この監視塔(望楼)がどのくらいの高さであったかは分かっていないものの明らかに監視目的で建てられたものであった。 ジッグラト イェリコの防御壁や監視塔はシュメール文明のジッグラトに引き継がれた。この地は年間降水量が少なく、農業用水をチグリス川とユーフラテス川に依存していたが増水の時期や水量が不規則で常に氾濫の危険にさらされていた。また、地形も開放的であったため、周辺の山岳民族や遊牧民族に侵入される危険性も高かった。このような環境から周辺環境の変化を把握するための大型の監視塔(情報塔)が作られた。 初期のシュメールのジッグラトは洪水を見張るための監視塔として建設されたが、のちに史上最古の宗教塔へと変容した。紀元前4000年から3400年頃になるとシュメール文明では労働の分化や階層の分化が生じ、煉瓦の大神殿が築かれるようになった。シュメールの各都市国家では、それぞれの守護神のもとに神権政治が行われていたが、主神殿は次第に高い位置に建立された。人工的な丘に設けた層状の基壇上に神殿が設けられ、このような丘は人工の聖なる丘「ジッグラト」と呼ばれるようになった。 高塔建築の原型の一つとして著名なものに紀元前2100年頃の「ウルの第三王朝のジグラット」がある。ウルの第三王朝のジグラットは3層の基壇からなり、最上層に月の神ナンナルの拝殿が建てられていた。各層の表面は焼成煉瓦、内部は土と日干し煉瓦で築かれ、テラスには樹木が植栽されていた。 さらに紀元前562年には新バビロニア王国のネブカドネザル王がジグラットを再建したが、その淵源はウルのジグラットにあるといわれている。旧約聖書の『創世記』には、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする野望の実現と、それに対して主の与えた罰の寓話である、バベルの塔が登場する。このバベルの塔のモデルはネブカドネザル王のジグラットであるとする説がある。 古代エジプトのパイロン 古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔に挟まれたかたちをとっていた。この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもルクソール神殿やエドフ神殿など主な神殿遺跡でそれらを確認することができる。 また、古代ギリシア人が「オベリスク」と呼び、後世、ヨーロッパ社会でモニュメントとして転用されることともなる、四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。これは太陽神信仰と関係し、聖なる石「ベンベン」が発展したものとも考えられている。
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