オリエント防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 16:25 UTC 版)
「プブリウス・ウェンティディウス・バッスス」の記事における「オリエント防衛」の解説
紀元前40年にパルティア王オロデス2世の王子パコルスが率いるパルティア軍が属州シリアを襲撃した。しかもこれに対処すべく派遣されたローマの将軍クィントゥス・ラビエヌスがパルティア側に寝返ったことで、ローマ支配下のオリエントはさらに深刻な脅威にさらされた。 これを受けて派遣されたのがウェンティディウスであり、彼はまずラビエヌスの掃討に向かう事になった。紀元前39年、ウェンティディウスは小アジアのタウルス山脈周辺でラビエヌス指揮下のパルティア騎兵を移動困難な急斜面に誘導して殲滅した(キリキアの門の戦い)。ラビエヌスは脱出を図るも捕えられ、処刑された。さらに、同年中にウェンティディウスは、ラビエヌスとは別ルートで小アジアを侵攻中であったパルティアの将軍ファルナパテスを、伏兵を置いた上で、少数の釣り出し部隊でその罠へと誘導する戦術で撃破し、ファルナパテスはローマの捕虜となった後に殺害されている(アマーヌス山の戦い)。 なお王子パコルスは早々にシリアから撤退していたため、ウェンティディウスはシリアを無血で奪還したが、紀元前38年早春、パコルスは再びシリアに侵攻してきた。このパコルスに対し、冬営中であったウェンティディウスは偽情報を流すことで時間を稼ぎ軍団を再編した。パルティア軍はアンティオキア攻略途上でギンダロス山周辺のローマ軍陣地を襲撃するも、再編を済ませ待ち受けたローマ軍の投石兵部隊と重装歩兵部隊の前に壊滅(ギンダロス山の戦い(英語版))、パコルスは護衛もろとも殺害された。 ウェンティディウスは、アントニウスの嫉妬を懸念してそれ以上のパルティア軍残党の追撃は断念したが、離反していたシリア諸部族の鎮圧を行った。ところが彼がパルティア側に寝返っていたユーフラテス川沿いのサモサタ(英語版)(現トルコのサムサト)の攻略を故意に遅らせているとの噂が立った。コンマゲネ王アンティオコスから1000タラントンの賄賂を貰ったからだ、というのである。 ウェンティディウスは疑いを晴らすべくアントニウスにその命に服する旨を請うたものの、そのアントニウスは自らシリアに出向き、ウェンティディウスを解任してしまう。 もっとも、サモサタ(英語版)攻略を引き継いだアントニウスも結局成功せず、結局300タラントンの賠償金を見返りに和平に応じてしまっていることから、プルタルコスは「ウェンティディウスの解任は、全ての功績が彼に帰することを嫌ったアントニウスの嫉妬である」と断じている。
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