オイスタイン・オーシェトの殺害
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「ヴァルグ・ヴィーケネス」の記事における「オイスタイン・オーシェトの殺害」の解説
1993年前半には、オイスタイン・オーシェト(ユーロニモス)とヴィーケネスとの人間関係は悪化し、対立関係となった。加えてユーロニモスはスウェーデンのブラックメタルシーンとの対立も起こしていた。ベルゲンズ・ティーデンデの一件の後、警察やメディアから注目を受けるようになったヘルヴェテをユーロニモスは閉店すること決めた。 1993年8月10日の夜、ヴィーケネスとブラックソーン (Blackthorn)はベルゲンからオスロのトイェン通り (Tøyengata)にあったユーロニモスのアパートメントへと車で向かった。アパートメントでは衝突が起こり、ヴィーケネスはユーロニモスを刺殺した。ユーロニモスの遺体は、アパートメントの外階段で発見され、合計23か所の創傷があった。当初は、多くの人々がスウェーデンのブラックメタルシーンの人物が殺人犯であると考えていた。 そして、この殺人は権力闘争の結果、もしくはバーズムのレコードに関する金銭トラブル、もしくはリレハンメルでの殺人を凌駕することを試みたのではないかと推測された。実際に、『Aske』リリース後、ヴィーケネス(バーズム)はデスライク・サイレンス・プロダクションを離脱。自主レーベル・シモフェン・プロダクションを設立している。しかし、ヴィーケネスはそれらすべてを否定し、自己防衛のためにユーロニモスに攻撃したと主張した。彼が言うには、ユーロニモスはスタンガンでヴィーケネスを気絶させようと企て、彼を行動不能にして、拷問にかけ、その拷問の中で死に行く様をビデオに撮ろうとしていたと主張した。ヴィーケネスは次のように説明している。「もし奴がそのことを皆に話していたのなら、俺は真剣には受け取らなかっただろうな。だが、奴が友人の中でもごく少数にのグループにだけそのことを話していて、その中の1人が俺に打ち明けてくれたんだ」。彼が言うには、ユーロニモスがヴィーケネスを待ち伏せするために、無署名の契約を名目とした会議を利用すること計画しているとのことだった。ヴィーケネスが4階にあったユーロニモスの部屋に向かっている間、ブラックソーンは外で煙草をふかしていた。ヴィーケネスが言うには、ヴィーケネスがユーロニモスに玄関で会い、契約書をヴィーケネスに持ってきた。しかし、ヴィーケネスは部屋に入ろうとし、ユーロニモスと向かい合った。そしてユーロニモスは「パニックを起こし」、ヴィーケネスの胸を蹴りつけた。二人は取っ組み合いになり、ヴィーケネスはユーロニモスを刺殺した。ヴィーケネスは、ユーロニモスの創傷の多くは、取っ組み合いの末に落下した際、割れたガラスによるものであると強く主張している。ユーロニモスの殺害後、ヴィーケネスとブラックソーンはベルゲンへと車で戻っている。この道中、彼らは湖に立ち寄り、ヴィーケネスは血の付いた衣服を処分している。この自己防衛の主張に基づく話は、エンペラーのドラマーであるファウスト(英語版)などには信用されていない。 ヴィーケネスによれば、ブラックソーンはただ新しいギターリフをユーロニモスに披露するために同行しただけで、彼は「間違った時に間違った場所にいた」だけだったという。ブラックソーンは、1993年の夏、彼はほとんどの期間、精神科に予防拘禁されていたが、ベルゲンへと逃走し、ヴィーケネスと過ごしていたと主張している。彼は、ヴィーケネスがユーロニモスの殺害を計画し、自分に付いてくるように強制したと述べている。殺人について、ブラックソーンは「俺はそれに反対することなどできなかった。俺は、オイステインのことを悪く思っちゃいない」。ヴィーケネスは、ブラックソーンの主張を「俺が[殺人について]奴を非難することができないような防御」と呼んでいる。 ヴィーケネスは、1993年8月19日にベルゲンで逮捕された。警察は、ヴィーケネスの自宅で150kgもの爆発物や3,000発の弾丸を発見している。 『Encyclopedia of White Power』によれば、ヴィーケネスはその爆薬は「オスロのブリッツ・ハウス、極左の奴ら、アナキストどもの集まりを爆破するためのものだ」と語っている。伝えられるところによれば、その計画は「実行直前であった」とされ、ヴィーケネスの逮捕によって防がれた。1999年に最初に刊行された記事において、ケヴィン・クーガンは、ヴィーケネスの計画したブリッツ・ハウスへの攻撃計画について、ユーロニモス殺害のあり得そうな動機であると指摘している。クーガンは次のように書いている。「『ブラック・メタルの血塗られた歴史』は、ヴィーケネスがメタルヘッドになる前、十分にファシストだったという強力な証拠を示している」。それからクーガンは更に、ヴィーケネスの「ブリッツ・ハウスと呼ばれたオスロを本拠地とする若者の反ファシストの本拠地を滅ぼす」目的についても言及している。そして最後に、「ヴィーケネスには、ブリッツ・ハウスの爆破の前にユーロニモスを殺害する以外に選択肢は無いと感じていたのではないか。なぜなら、'共産主義者'は、そのような行いにほぼ確実に反対するだろうからだ」と〆ている。メディアは、ユーロニモスとヴィーケネスが、ノルウェーを代表する大聖堂であるトロンハイムのニーダロス大聖堂をも爆破する計画を企てていたと推測した。ちなみにこのニーダロス大聖堂は、メイヘムの1stアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』のジャケットにも使用されている。ヴィーケネスは、2009年のインタビューでこれらの主張を否定し、次のように述べている。「俺は、俺たちがいつか攻撃された時に、ノルウェーを守るために(爆発物と弾丸を)手に入れただけだ。冷戦の間、アメリカ合衆国とソヴィエト連邦は俺たちを攻撃する決定を下したかもしれない。俺たちが最後に攻撃された時のこと考えれば、俺達には政府も、王族も、軍隊さえも信じるような理由はない。俺達の人生は、俺たち自身にゆだねられているんだ」。
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