エスケープ号事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 00:31 UTC 版)
「ジョージ4世と競馬」の記事における「エスケープ号事件」の解説
風刺画家トマス・ローランドソンによる1790年頃のジョッキークラブの会合。この絵の中には重要人物はほとんど描かれていないという見解と、中央の太った男性がジョージ、その右でメモをとっているのがバンベリー准男爵とする見解がある。 ローランドソンによる風刺画。賭け場(Betting Post)に群がる人々を描いている。中央左側で胸に勲章をつけているのがジョージ。中央右側で松葉杖を携えているのがエクリプス号の馬主オケリー氏。 エスケープ号事件を描いた風刺画。中央のエスケープ号のチフニー騎手は鞭を口で咥え、手綱を引いてエスケープ号を抑え込んでいる。エスケープ号の脚を縛っているペナントには「HONI SOIT QUI MAL Y PENSE」という文字が記されている。これは王室の最高勲章であるガーター勲章に描かれている金言で、「邪な考えを抱く者には災い来たる」という意味である。ジョージは画面の右におり、指を二本たて、チフニー騎手に恩給(年金)を約束し、鼻に手をやって翌日の儲けの目論見をたたてている。 しかしこの直後、ジョージとチフニー騎手、エスケープ号は、エスケープ号事件として競馬史に残る悪名高い事件を起こした。オートランズステークス優勝のあと、ジョージは秋のニューマーケット競馬場にエスケープ号を出走させた。騎手はチフニー騎手である。木曜日のレースで、当時イギリスを代表する名馬の1頭だったエスケープ号は4頭中1番人気となり、賭けの倍率も2対1(3倍)にまで下がったのだが、不可解な大敗をした。翌日、人気の落ちたエスケープ号が再び出走し、前日と同じ相手に楽勝した。前日の敗戦で、賭けの倍率は4対1(5倍)から5対1(6倍)にまで高くなっていた。ジョージもチフニー騎手もこれで大儲けをしたという。 すぐに、ジョージらが2日目の馬券で儲けるため、チフニー騎手がいんちきをして初日にエスケープ号が負けるようわざと手綱を抑えたのだ、と非難の声が上がった。ジョッキークラブの会長で審判長をしていたバンベリー準男爵(Sir Charles Bunbury, 6th Baronet)ほか3名の審判団はチフニー騎手を呼び出し、詰問した。チフニー騎手は、1日目の敗戦はエスケープ号の調子が悪かったと弁解したが、2日目のレースでエスケープ号に20ギニー賭けていたことを白状した。審判団はチフニー騎手の言い訳を信用せず、過去のチフニー騎手の賭けの記録を調べ上げた。これまでほかにも同様の行為が行われていたようだった。さらにチフニー騎手はある人物に対して300ポンドの借金があり、初日のレースのあと借金を帳消しにしてもらったことも突き止めた。その人物がチフニーにわざと負けるよう唆したものとみなされた。 バンベリー準男爵は、ジョージに対し、次にチフニー騎手を乗せたら、金輪際ジョージの馬と一緒にレースに出る者は一人もいなくなるぞ、と警告した。ジョージはいんちきを認めず、チフニー騎手を擁護したが、ジョッキークラブはジョージの言い分を認めなかった。この一件のあと、ジョージはニューマーケットに足を踏み入れなくなった。 ジョージの側は、ジョッキークラブと決別してやったと息巻いていたが、競馬界の人々はみなジョッキークラブを賞賛した。たとえ相手が次期国王であろうとも、公正さを貫き通して追放処分を決めたことでジョッキークラブの権威は大いに高まった。もともと当時のジョッキークラブは、何ら法的拘束力を持たない同好会にすぎない存在だったが、これ以後はイギリス中の競馬人がニューマーケットのジョッキークラブのさまざまな決定を遵守するようになった。現代ではニューマーケットのジョッキークラブは「世界の競馬の中心」「世界の競馬の決定機関」などと称されており、これはエスケープ号事件の結果である 。エスケープ事件の核心は、王太子ジョージがいんちきをしたことではなく、いんちきをした王太子にジョッキークラブが毅然とした態度を示したことにある。 当時は、こうしたいんちき行為はよくあることだった。(そもそもこうしたことを禁じる規則はなかったので、いんちきではあっても「ルール違反」ではなかった。)しかし当時のジョッキークラブの会長バンバリー準男爵はかねてより、競馬界からこうしたいんちきを一掃したいと考えていた。そのために大々的に宣伝に使える事例を求めているうちに、ジョージとエスケープ号の一件が起きたものである。Running Racing; The Jockey club years since 1750(『レースを走らす:1750年以降のジョッキークラブ』、1997年)の著者John Tyrrelによれば、バンバリー準男爵は「大魚を探し求めているうちに、王太子という大きくて見せしめにうってつけの魚がひっかかった」のだという。 その後ジョージは競馬を辞めたわけではない。ジョージはアスコット競馬場を根城にして競馬に打ち込んだ。ダニエル・ラドクリフ(Delmé Radcliffe(1774 - 1832))を責任者として王室厩舎を設立し、持ち馬をニューマーケット競馬場のレースに出すときは、もっぱらラドクリフ氏名義で出走させた。ジョージは1801年から1807年のあいだだけでも100勝以上をあげた。
※この「エスケープ号事件」の解説は、「ジョージ4世と競馬」の解説の一部です。
「エスケープ号事件」を含む「ジョージ4世と競馬」の記事については、「ジョージ4世と競馬」の概要を参照ください。
- エスケープ号事件のページへのリンク