競馬の庇護者ジョージ4世
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「ジョージ4世と競馬」の記事における「競馬の庇護者ジョージ4世」の解説
「王太子殿下、“麗しき婦人”(Lady of Quality)とアスコット競馬へ」 1821年のレーシングカレンダー。巻頭の会員名簿の筆頭に「国王陛下(HIS MAJESTY)」の名がある。 キャロライン妃は英国史上初めてエプソム競馬場のダービーに臨席した王妃となった。 エスケープ号事件から15年ほどたったあるとき、ジョッキークラブのバンベリー准男爵とダーリントン伯爵(William Vane)は連名でジョージに書簡を送っている。その中で彼らは「かつてニューマーケットで起きた不幸な出来事を、殿下が忘却のふちに埋められますよう、謹んで懇願いたす次第であります(we humbly request that Your Royal Highness will bury in oblivion any past unfortunate Occurences at Newmarket)」とし、和解を申し入れた。しかしジョージはこれを受け容れず、その後もアスコット競馬に傾注した。 アスコット競馬場の開催中、ジョージは、愛人のコニンガム侯爵夫人(英語版)が「飽きてしまった」と言わない限り、毎日通った。この様子は「王太子殿下、“麗しき婦人”(Lady of Quality)とアスコット競馬へ」の風刺画に描かれ、ロマンス小説『Lady of Quality』の題材にもなった。 1820年1月に父ジョージ3世が崩御し、ジョージはイギリス国王ジョージ4世として即位した。このあと、喪が明けた1821年7月に行われる予定の戴冠式をめぐり、ジョージ4世と、その妻キャロラインとの間で争いが起きた。もともと両者は1795年に気の進まない結婚をして、翌1796年からは別居し、キャロラインはイギリスを出て大陸で愛人と暮らしていた。ジョージも様々な愛人を囲っていた。ところがジョージが国王戴冠式を行うとなれば、妃も同席し、その場で正式な王后(英語版)として冠を受けることになる。ジョージはこれをなんとか阻止しようと、法的手段によって正式な離婚を成立させようとしてキャロラインとの間で争議となった。一連の諍いをめぐる醜聞はイギリスの大衆を賑わすことになった。キャロラインは大衆を自分の味方につけようと、7月の戴冠式の直前に行われるダービーの会場に姿を現した。これはイギリス史上初めて、王妃によるエプソム競馬場訪問となった。史上初の王妃のダービー臨席を伝えた『タイムズ』紙は、王妃のことに紙面を割きすぎて、ダービー優勝騎手の名前を掲載するのを忘れたという。(しかし結局、キャロラインは戴冠式から腕づくで締め出された。キャロラインはその3週間後に死んだ。) キャロラインの死後間もなく、アイルランドの競馬会からジョージ4世あてに秋競馬の案内が送られてきた。ジョージ4世は招待を受けてアイルランドへ競馬観戦に行った。これは国王による正式なアイルランド訪問としては400年ぶり(リチャード2世以来)のこととなった。 その後もジョージはアスコット競馬の充実に腐心した。お抱え建築家ジョン・ナッシュに競馬場の施設を拡充させ、競馬主催者として王室を挙げて開催に臨席した。枢密院での議事中も、書記官のチャールズ・グレヴィル(Charles Greville)と競馬のひそひそ話をしていたと伝えられている。 1828年、晩年のジョージ4世は、ついにジョッキークラブの重鎮をセント・ジェームズ宮殿へ招待し、和解を果たした。その席上、ジョージ4世は「自分ほど競馬に関心を持っている人間はいない」と宣言し、2度に渡って競馬のために乾杯をあげた。 翌1829年6月、アスコット競馬の開催を前に、競馬の晩餐会を主催した。そこでジョッキークラブから「競馬の庇護者」の称号を贈られ、これを快く受け入れた。国王はこう言った。「余はジョッキークラブから離れたときも、クラブの会員に不親切にしようとか、競馬への関心を捨てようとか思ったことはなかった」。
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