ウェセックス文化第II期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 20:48 UTC 版)
「ブリテンの先史時代」の記事における「ウェセックス文化第II期」の解説
紀元前1650-1400年ごろは「ウェセックス文化の第II期」にあたる。移民の勢力が政治力を拡大し、ブリテン諸島(大ブリテン島、アイルランド等)の支配を確立していった時期であったものと推測されている。おそらく、第I期よりも前、ビーカー文化の当初の紀元前2600年ごろから鋳掛け屋、鋳物屋、交易商人としてブリテン諸島に出入りしていた流浪民の「ビーカー人」たちが時代を下るごとに定住化して富を蓄え、彼らの社会構造が地元の非インド・ヨーロッパ語族の人々の社会を支配、徐々に政治的に同化吸収するようになったものである。したがって、ビーカー人がインド・ヨーロッパ語族のケルト人であったことは、ほぼ間違いない。 この支配拡大の手段が経済的なもののみであったのか、それとも武断的であって武力で服属させるのが一般的であったのかどうかについては、現在でも議論がある。しかし、分子生物学を用いた調査結果によると、ブリテン諸島へ進出していったころの彼らは人口の面では地元民と比較して圧倒的な少数派であったはずである。その後の時代でも、少なくとも男系の混血が社会全体に広まることはなかった。彼らは地元民を社会的に同化吸収していったが、これは父系的な血統の相続によるものではなく、単なる社会構造の伝播現象だったようである。彼らは貴族層となったはずであるが、彼らの(男系の)子孫は圧倒的な社会的少数派で、世代が下ろうとも、社会の下層に降りてくることはまずなかった。彼らの社会構造はこのようにしてブリテン諸島全体に水平的に拡大していった。同時に、ケルト語派の諸言語が、様々な地方的訛りを伴ってブリテン諸島全体に拡大していった。 金属加工の技術が飛躍的に向上し、よくできた工芸品や武器が副葬品などとして多量に残されている。広い地域で貿易を行っており、ミケーネの銀器・金器も見つかっている。またこのころ、銅に錫を混ぜて青銅をつくる技術、鋳型によって大量生産する技術が急速に発達した。コーンウォールやデボンの錫鉱は豊富な埋蔵量があったため、活発に採掘が行われ、大陸に輸出された。 ウェセックス文化第I期と異なり、この時代の人々の間では巨石建造物の建設への興味は急速に失われていった。たとえばストーンヘンジは、その当時でもいまだ祭礼の施設として使われていた可能性もあるが、この時代のはじめの紀元前1600年ごろに作られたZ群の部分の囲いを最後に、目立った意匠がつけ加えられることはもはやなくなった。 このころからブリテン諸島の広い範囲で、それぞれ大きくまとまった諸部族となった。彼らは鉱物資源などを求めて争い、戦争もおこった。焼け落ちた防塞も時おり発見されている。いまだ判明していないことも多いが、おおよそ以下のような生活をしていたと考えられている。 20ヘクタールほどの土地を壕と柵で囲い集落を作った。そのなかで大麦・小麦を栽培し、牛や豚を飼育していた。戦士たちが貴族として支配層となり、農民たちは牛に犂をひかせていた。夜になるとビーカーとよばれるベル型の器にビールやハチミツ酒を注ぎ、晩餐を楽しんだ。戦士たちは時おり戦争に行き、勇敢さを競いあった。特に錫などの鉱山はしばしば争奪戦がおこった。というのも、こうした鉱物はギリシアと取引するために必要だったからである。ビーカー人たちは金銀がちりばめられた美しい装飾品に魅せられ、ギリシアまで商取引に赴いた。死者には石碑をつくり、装飾品などを添えて埋葬した。
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