ウェセックス上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:33 UTC 版)
「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「ウェセックス上陸」の解説
『アングロサクソン年代記』の主要な証拠でもあるピーターバラ年代記(英語版)の写本によれば、1015年9月初旬に「クヌートはサンドウィッチに入り、直ぐにケントを回ってウェセックス王国に出帆し、ついにフロム川(英語版)の河口まで来てドーセット、ウィルトシャー、サマセットに侵入した」とあり、アルフレッド大王の時代以来見られなかった激烈な戦役が始まった。『王妃エマ讃』の一節には、クヌート艦隊の描写について次のようにある。 多様な種類の盾があったため、あらゆる国の軍隊が集まっていると思われるほどであった。... 船首には金が、様々な形の船には銀も輝いていた。金の輝きで恐ろしい敵のライオンを見て、金の顔で威嚇する金属の男達を見て、...船上で死を迫る角が金に輝く雄牛を見て、そのような力の王に対し何の恐れも感じない者がいるだろうか?さらに、この大遠征には、奴隷も、奴隷から解放された者も、生まれの貧しい者も、年老いて弱った者もいなかった。全ての者が高貴で、成熟した年齢で力強く、あらゆる種類の戦に十分に対応でき、騎兵の速度を嘲笑うほどの優れた機動性を持っていた。 —『王妃エマ讃』 アルフレッドとエゼルレッドの王朝に長く支配されていたウェセックスは1015年末、その2年前にスヴェンに屈服したように、クヌートに服従した。 この際、マーシア伯爵(英語版)であったエアドリック・ストレオナ(英語版)が40隻の船とその乗員らと共にエゼルレッド軍を脱し、クヌート陣営に加勢した。もう一人の亡命者は、スヴェンによるヴァイキング侵略に抗戦したヨムスヴァイキング首領であったトルケルで、1012年にイングランドに忠誠を誓った── 『ヨムスヴァイキングのサガ(英語版)』の一節には、ヨムスボルグの傭兵がイングランド滞在中に2度の攻撃を受け、トルケルの兄弟であるHenningeという人物が犠牲になったという記述があり、このような忠誠心の変化の説明が見受けられる。 仮に『フラート島本』が正しく、トルケルがクヌートの少年時代の庇護者であったとすれば、彼がトルケルの忠誠、究極にはヨムスボルグのヨムスヴァイキングを受け入れたことにも説明がつく。エアドリックと来た40隻の船は、デーンロウの船と考えられることもあるが、おそらくはトルケルの船とされる。
※この「ウェセックス上陸」の解説は、「クヌート1世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「ウェセックス上陸」を含む「クヌート1世 (イングランド王)」の記事については、「クヌート1世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- ウェセックス上陸のページへのリンク