インドの論理学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:46 UTC 版)
詳細は「インド論理学」を参照 形式論理学は古典期インドでも独立に発生して初期近代まで発展し続けており、ギリシア論理学から影響があったかどうかは知られていない。メダティティ・ガウタマ(紀元前6世紀)は論理学派のアンヴィクシキ派を創始した。紀元前5世紀頃の『マハーバーラタ』(12.173.45)では論理学のアンヴィクシキ派とタルカ派に言及している。パーニニ(Pāṇini、紀元前5世紀頃)は自身のサンスクリット文法を形成する上で、(ブール論理といくつかの共通点を持つ)論理形式を発展させた。チャーナキヤ(紀元前350年ごろ-紀元前283年)は著書『アルタシャーストラ』の中で論理学は独立した研究領域「アンヴィクシキ」だと述べた。 インドの六学派のうち、ニヤーヤ学派とヴァイシェーシカ学派の二つが論理学を扱っている。アクサパンダ・ガウタマ(2世紀)の『ニヤーヤ・スートラ(英語版)』はヒンドゥー哲学の6つの正統学派の一つニヤーヤ学派の中心的な文献となっている。この実在論的な学派は最初の前提、根拠、事例、応用、結論という五段階の枠組みから成る厳密な推論を発展させた。観念論的な仏教哲学はニヤーヤ学派に対する主な反論者となった。中観派の創始者ナーガールジュナ (150年頃-250年頃)は四句分別(英語版)として知られる分析を発展させた。この論証法では命題の肯定、否定、肯定かつ否定、肯定でも否定でもないの四種類を体系的に吟味・棄却する。しかし一方で形式的な三段論法を発展させたディグナーガ(480年頃-540年頃)やその弟子で仏教論理学を頂点に導いたダルマキールティといった人々も並行して存在していた。彼らの分析は一定の付随物また浸透物としても知られる必然的な論理的帰結、「ヴィヤプティ (遍充)」の定義に重点を置いていた。この目的のために「アポーハ」つまり差別化として知られる教説が発展した。これは物の特質を定義する際の包含・除外と呼ばれるものと関係している。 こういった試みに伴う困難が部分的にはナヴィヤ・ニヤーヤ(英語版)という名の新しい論理学派の興隆を励起し、同派が16世紀に形式的な分析を展開することになる。この後発の学派は東インド・ベンガル地方で始まり、ゴットロープ・フレーゲの『意義と意味について』や『数の定義』のような現代論理学によく似た理論を発達させ、さらにそれだけではなくナヴィヤ・ニヤーヤ学派の「普遍の制限条件」の理論は近代的な集合論の発展に対していくつかの点で先を越していた。1824年以降インド論理学は西洋の学者の関心を惹き、チャールズ・バベッジ、オーガスタス・ド・モルガン、そしてとくにジョージ・ブールといった19世紀の重要な論理学者に影響を及ぼした。このことはブールの妻メアリー・エヴェレスト・ブール(英語版)が1901年に書いた『19世紀のインド思想と西洋科学』なる「ボーズ博士への公開書簡」で証言されている: 「1830年-1865年の数学界におけるバベッジ、ド・モルガン、ジョージ・ブールの三人による強烈なインド化の影響とは何だったのかを考えてみよう」
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