イブン・ラーイクとの対立
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「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「イブン・ラーイクとの対立」の解説
エジプトからファーティマ朝の軍隊を排除した後、イフシードは軍隊を派遣してアレッポに至るシリア全土を占領した。そして、かつてアフマド・ブン・トゥールーンが行ったように、シリア北部に対する支配を強化するために現地の部族であるキラーブ族(英語版)と同盟を結んだ。シリアの総督として付託された権限はキリキアのビザンツ帝国(東ローマ帝国)との国境地帯(スグール(英語版))にまで及んだ。その結果、936年と937年の間、もしくは937年と938年の間(恐らくは937年の秋)にイフシードは捕虜交換について交渉するためにビザンツ皇帝ロマノス1世レカペノス(在位:920年 - 944年)が派遣した使節団を迎え入れることになった。交渉はカリフのラーディーの名の下で行われたが、通常このような事案の連絡と交渉は地方の総督ではなくカリフに対して行われるものであったため、これは特別な名誉であり、イフシードの自治権に対する暗黙の承認でもあった。捕虜交換は938年の秋に実施され、6,300人のイスラーム教徒が同数のビザンツ人の捕虜との交換で解放された。ただし、ビザンツ側はアッバース朝側よりも800人多い捕虜を抱えていたため、これらの捕虜に対しては身代金を支払わなければならず、残りの捕虜は続く6か月の間に徐々に解放された。 936年から938年にかけて、バグダードではアミール・アル=ウマラーのイブン・ラーイク(英語版)がイフシードの古くからの支持者でありワズィールに再任されていたアル=ファドル・ブン・ジャアファル・ブン・アル=フラートとともに権力を握っていた。この間、イフシードはバグダードと良好な関係を築いていた。しかしながら、イブン・ラーイクはトルコ人のバジュカム・アル=マーカーニー(英語版)によって地位を追われ、その後、カリフからシリアの総督に任命された。そして939年にイフシードに対してその地位を要求するために西方へ進軍した。 イブン・ラーイクの任命はイフシードを激怒させ、イフシードは事情を明らかにするためにバグダードへ使者を派遣した。これに対してバジュカムは、カリフは自分が選んだ者を任命したかもしれないが、結局のところそこは重要ではないと話した。そして誰がシリア、さらにはエジプトの総督であるかを決めるのは軍事力であり、名目的なカリフによる任命ではないとし、イブン・ラーイクとイフシードのどちらかが紛争で勝利を収めた場合、すぐにカリフによって追認されるだろうと伝えた。この返事はイフシードのさらなる怒りを買った。そしてしばらくの間、アッバース朝が自分の地位を正式に再承認するまでアッバース朝のカリフではなく自分の名を硬貨に打刻し、金曜礼拝の説教(フトバ(英語版))も自分の名の下で朗誦させ、さらには娘の一人をファーティマ朝のカリフのカーイムに嫁がせると脅したと伝えられている。しかし、当時のファーティマ朝はアブー・ヤズィード(英語版)の反乱への対処に集中していたため、イフシードに対していかなる支援も行える状況にはなかった。 ラッカから進軍したイブン・ラーイクの軍隊はイフシードの兄弟のウバイドゥッラーが総督を務めていたシリア北部を速やかに占領し、エジプトの軍隊は南方へ撤退した。939年10月か11月までにイブン・ラーイクはラムラに到達し、さらにシナイ半島へ向かった。一方でイフシードはイブン・ラーイクと対決するために自身の軍隊を率いて進軍した。そしてファラマにおける短期間の戦闘の後に両者はシリアを分割することで合意した。合意によってラムラ以南の地域がイフシードの支配下に入り、その他の北方の地域がイブン・ラーイクの支配下に入った。しかし、940年5月または6月にイフシードはイブン・ラーイクが再びラムラに向かったことを知り、戦いに臨むために再び軍隊を率いた。この2度目の戦争においてイフシードはアリーシュで敗北を喫したものの、すぐに軍隊を立て直した。そしてイブン・ラーイクを迎撃してエジプトへの侵入を完全に阻止し、イブン・ラーイクはダマスクスへの撤退を余儀なくされた。さらにイフシードは別の部隊を兄弟のアブー・ナスル・アル=フサインに与えてイブン・ラーイクに向けて送り出した。しかし今度はイブン・ラーイクがラッジューン(英語版)で勝利を収め、アブー・ナスルは戦死した。イブン・ラーイクは勝利したものの、最終的には和平を結ぶ道を選んだ。そしてアブー・ナスルを名誉をもって埋葬し、息子のムザーヒムを使者としてエジプトへ派遣した。自身の政治方針に忠実であったイフシードはこの和平の提案を受け入れた。イフシードは和平によって前年に合意した領土を回復したが、一方で貢納金として年間140,000ディナールをイブン・ラーイクへ支払うことになった。さらにイフシードの娘のファーティマとムザーヒムの結婚によって和平をより確実なものにした。
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