イブン・ラーイクとの対立とは? わかりやすく解説

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イブン・ラーイクとの対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:42 UTC 版)

ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「イブン・ラーイクとの対立」の解説

エジプトからファーティマ朝軍隊排除した後、イフシードは軍隊派遣してアレッポに至るシリア全土占領した。そして、かつてアフマド・ブン・トゥールーンが行たようにシリア北部対す支配強化するために現地部族であるキラーブ族(英語版)と同盟結んだシリア総督として付託され権限キリキアビザンツ帝国東ローマ帝国)との国境地帯(スグール(英語版))にまで及んだその結果936年937年の間、もしくは937年938年の間(恐らくは937年の秋)にイフシードは捕虜交換について交渉するためにビザンツ皇帝ロマノス1世レカペノス在位920年 - 944年)が派遣した使節団迎え入れることになった交渉カリフラーディーの名の下で行われたが、通常このような事案連絡交渉地方総督ではなくカリフに対して行われるものであったため、これは特別な名誉であり、イフシードの自治権対す暗黙承認でもあった。捕虜交換938年秋に実施され、6,300人のイスラーム教徒同数ビザンツ人の捕虜との交換解放された。ただし、ビザンツ側はアッバース朝側よりも800人多い捕虜抱えていたため、これらの捕虜に対して身代金支払なければならず、残り捕虜は続く6か月の間に徐々に解放された。 936年から938年にかけて、バグダードではアミール・アル=ウマラーのイブン・ラーイク(英語版)がイフシードの古くからの支持者でありワズィール再任されていたアル=ファドル・ブン・ジャアファル・ブン・アル=フラートとともに権力握っていた。この間、イフシードはバグダード良好な関係を築いていた。しかしながら、イブン・ラーイクはトルコ人のバジュカム・アル=マーカーニー(英語版)によって地位追われその後カリフからシリア総督任命された。そして939年にイフシードに対してその地位要求するために西方進軍した。 イブン・ラーイクの任命はイフシードを激怒させ、イフシードは事情明らかにするためにバグダード使者派遣した。これに対してバジュカムは、カリフ自分選んだ者を任命したかもしれないが、結局のところそこは重要ではないと話した。そして誰がシリアさらにはエジプト総督であるかを決めるのは軍事力であり、名目的なカリフによる任命ではないとし、イブン・ラーイクとイフシードのどちらか紛争勝利を収めた場合、すぐにカリフによって追認されるだろうと伝えた。この返事はイフシードのさらなる怒り買った。そしてしばらくの間アッバース朝自分地位正式に承認するまでアッバース朝カリフではなく自分の名を硬貨打刻し、金曜礼拝説教(フトバ(英語版))も自分の名の下で朗誦させ、さらには娘の一人ファーティマ朝カリフカーイム嫁がせる脅した伝えられている。しかし、当時ファーティマ朝はアブー・ヤズィード(英語版)の反乱への対処集中していたため、イフシードに対していかなる支援行え状況にはなかった。 ラッカから進軍したイブン・ラーイクの軍隊はイフシードの兄弟ウバイドゥッラー総督務めていたシリア北部速やかに占領しエジプト軍隊南方撤退した939年10月11月までにイブン・ラーイクはラムラ到達し、さらにシナイ半島向かった一方でイフシードはイブン・ラーイクと対決するために自身軍隊率いて進軍した。そしてファラマにおける短期間戦闘の後両者シリア分割することで合意した合意によってラムラ以南地域がイフシードの支配下入りその他の北方地域がイブン・ラーイクの支配下入った。しかし、940年5月または6月にイフシードはイブン・ラーイクが再びラムラ向かったことを知り戦いに臨むために再び軍隊率いた。この2度目の戦争においてイフシードはアリーシュ敗北喫したものの、すぐに軍隊立て直した。そしてイブン・ラーイクを迎撃してエジプトへの侵入を完全に阻止し、イブン・ラーイクはダマスクスへの撤退余儀なくされた。さらにイフシードは別の部隊兄弟のアブー・ナスル・アル=フサイン与えてイブン・ラーイクに向けて送り出した。しかし今度はイブン・ラーイクがラッジューン(英語版)で勝利を収め、アブー・ナスルは戦死した。イブン・ラーイクは勝利したものの、最終的に和平を結ぶ道を選んだ。そしてアブー・ナスルを名誉をもって埋葬し息子のムザーヒムを使者としてエジプト派遣した自身政治方針忠実であったイフシードはこの和平提案受け入れた。イフシードは和平によって前年合意した領土回復したが、一方で貢納金として年間140,000ディナールをイブン・ラーイクへ支払うことになった。さらにイフシードの娘のファーティマとムザーヒムの結婚によって和平をより確実なものにした。

※この「イブン・ラーイクとの対立」の解説は、「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の解説の一部です。
「イブン・ラーイクとの対立」を含む「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事については、「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の概要を参照ください。

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