イブン・ブトラーンと健康表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 02:31 UTC 版)
「健康全書」の記事における「イブン・ブトラーンと健康表」の解説
「健康全書」は11世紀のバグダッド出身の医学者イブン・ブトラーンの著した「健康表」(Taqwim al‑sihha )がもとになったとされる。ブトラーンはネストリウス派のキリスト教徒と考えられており、アレッポやカイロ、コンスタンティノープル、アンティオキアで活動し病院の建設や医学的な論文、論争に関わったことがわかっている。ブトラーンの時代はイスラーム医学がよく発達しており、古典期から継承されたヒポクラテスやガレノスの健康観はブトラーンの哲学にもはっきりと現れている。「健康全書」の写本は次のような言葉で始められるからである。 医学の観点からみたTacuinum Sanitatisは、食べ物や飲み物、着るもの、からだによくないことを語るためのものである。古代の最高の助言に結びつけて、問題点を遠ざけるためのものである。 — 山辺規子『健康全書 Tacuinum Sanitatis』研究序論 103頁 これは、人々の健康のために医者がすべきことはまず正しい助言であり、具体的な治療はその後であるというヒポクラテスの思想を反映しており、またブトラーンが先端的な医学書を目指したのではなく、わかりやすい「養生訓」を著そうとしたことを示している。上記の6点が健康のために有効だということは古代から知られていたが、表のかたちでまとめたのはイブン・ブトラーンをもって嚆矢とするとされている。 アラビア語の写本と、図版が入っていないもののラテン語に翻訳された写本が複数確認されているが、具体的にいつ、誰が翻訳したかについて定説は存在しない。しかし少なくとも1266年にまで遡ることができ(また13世紀半ばのパレルモやナポリでラテン語に意訳されたという議論もあり)、15世紀にはある程度の数が揃っていたことから、サレルノの「サレルノ養生訓 Regimen sanitatis Salernitanum」ほどではないが、一定の知名度をえていたことが推測される。中世の終わりごろには健康全書は西ヨーロッパにおいてよく知られた書物になっていた。現代のイタリアでtaccuino という言葉はポケットサイズの便覧や手引、雑記帳などを指すときに使うほどである。 しかしこの時代はそもそも写本自体が高価なものであり、「健康全書」がわかりやすく、よく知られていたからといってそれがそのまま図版まで入った装飾写本になったことを意味するわけではない。また医学というテーマが装飾写本一般にそぐわないものであったことや、大きな挿絵がつけられたことで、厳密な意味での「表」ではなくなってしまったことにも注意が必要である。しかしそれでも「全書」がいまある形で装飾写本にされたということは、黒死病をはじめ疫病が流行していた当時の人々が健康やそれに関する知識に寄せた関心をうかがわせる。だがやはり誰が、いつ写本をつくったかについてははっきりしない。 しかし山辺規子が指摘するように、ヒポクラテスの流れを汲むイスラーム医学と中世ヨーロッパで栄えたミニアチュール文化が出会い、成立したものが「健康全書」なのだという事はいえるだろう。
※この「イブン・ブトラーンと健康表」の解説は、「健康全書」の解説の一部です。
「イブン・ブトラーンと健康表」を含む「健康全書」の記事については、「健康全書」の概要を参照ください。
- イブン・ブトラーンと健康表のページへのリンク