イタリア語写本
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「バルナバによる福音書」の記事における「イタリア語写本」の解説
公子オイゲンのイタリア語写本は1713年にジョン・フレデリック・クラマーから彼に贈呈されたものである; 同写本はその後1738年にオイゲンの他の蔵書と共にウィーンのオーストリア国立図書館に移動された。1709年より少し前のアムステルダムにおいて、クラマーがトーランドにこの写本を貸出し、トーランドは以下のように書いた; 「(クラマー氏は)件の都市の名士の蔵書からそれを持ち出した; 彼は生涯の間その断片に高い価値を置き続けたと評された。珍品としてか彼の宗教のモデルとしてかは私は知らない。」 Michel Fremauxはこの前の持ち主を追跡・同定したり何らかのカタログ・目録に対応する写本が載せられているのを発見したりしようとしたが成功していない。しかし、トーランドの批評は氏名不詳の前の持ち主が宗教上反三位一体論者またはユニテリアンであることを示唆していると考えられる; また、この写本はジョヴァンニ・ミケーレ・ブルートかクリストフォルス・サンディウスの書類に紛れてアムステルダムに来たのだろうとFremauxが推測している; 彼らはそれぞれトランシルヴァニア、ポーランド出身で、宗教関係の写本の収集家であった。 イタリア語写本は506ページあり、そのうちp43からp500までがバルナバによる福音書である。イスラーム圏のスタイルであるページの外周に赤い枠が書かれた中に本文が記されている。p5からp42にも赤い枠が書かれている; しかし(クラマーによる公子オイゲンへの紹介文の他は)赤い枠の中は空白であり、ある種の序文や準備的な記述のための余白だったのではないかと考えられるが、スペイン語写本の序文と比較するとこの余白はあまりにも大きい。非文法的なアラビア語で各章に簡単な説明が加えられたり傍注がつけられたりしている; それら説明・傍注にはまた時にはトルコ語単語やトルコ語の統語論的な特徴が現れる。また装丁もトルコ語でなされており、これが本来のものだと考えられる; しかし紙にはイタリア語のすかし模様が入っており、そのすかし模様は1563年から1620年にかけて用いられたものである。同一人物がこの写本の本文とアラビア語の注を書いており、左から右に文字を書く習慣がある点で明らかに「西洋」である。各ページの最下部には見出し語が書かれているが、これは印刷用の写本において一般的な慣習であった。この写本は未完であるように見える、というのはプロローグと222個の章ではページ上部に枠どられた余白があるが、そのうち28個の余白だけに語句が記入されているからである。このイタリア語写本が最もよく広まった Lonsdale and Laura Raggによる1907年の英語版の底本となっている。Raggsの英語版はラシード・リダーによりすぐさまアラビア語に訳され、1908年にエジプトで出版された。 イタリア語写本はしばしば子音が二重に書かれていたり、母音で始まる単語の語頭に不要な「h」が加えられている(例えば「anno」が「hanno」となっている)など特異な綴りが現れる。この写本の作成者は写本作成に習熟していなかった。しかしその他の点ではこの写本の正字法や句読法は16世紀前半の書法を示しており、ある重要な点ではヴェネツィアに特徴的なスタイルに従っている。しかしその他の特徴はトスカーナ風である; また中世後期(14-15世紀)的な特徴も数多く示している。Raggsに意見を求められた言語学の専門家は、ウィーンの写本はトスカーナのオリジナルをヴェネツィアの写本製作者が16世紀後半に写したものだというのがもっともありそうだと結論付けている。
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