バルナバによる福音書に対する初期の言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 01:57 UTC 版)
「バルナバによる福音書」の記事における「バルナバによる福音書に対する初期の言及」の解説
『バルナバによる福音書』は初期のキリスト教徒による二つの外典一覧で言及されている: ラテン語の『ゲラシウス教令集』(6世紀)とギリシア語の7世紀の『六十書一覧』である。両社は互いに独立した報告である。1698年にはジョン・アーネスト・グレイブがボドリアン図書館のバロキアヌス全集のギリシア語写本から使徒バルナバに帰される未知のイエスの発言集を発見して、この失われた福音書からの引用であろうと推測した。ジョン・トーランドはこの引用を「使徒バルナバは自分は悪の主張に打ち勝った者の中でも最弱と述べた; というのは彼は悪に打ち勝つことでさらなる罪を招いたからである」と訳している; そして彼は1709年以前にアムステルダムで現存するバルナバによる福音書のイタリア語写本を調査した際に対応する章句を認めたと主張した。しかし、その後イタリア語写本およびスペイン語写本を調査した学者たちにはトーランドの調査を裏付けられなかった。 この文献を現存する『バルナバの手紙』と混同してはいけない。『バルナバの手紙』は2世紀にアレクサンドリアで書かれたと考えられている。この二つの文献はバルナバに帰されていることを除けば、文体・内容・歴史、どの点においても無関係である。例えば割礼の問題に関して、両文献は明らかに相異なる見解を述べている。『手紙』の方はこのユダヤ教の慣習を拒絶しているのに対して、『福音書』の方はこれをむしろ奨励しているのである。また、現存する『バルナバ言行録』とも混同してはいけない。こちらはバルナバの旅行・殉教・葬儀について述べたものであり、431年以降にキプロスで書かれたものだと考えられている。 478年にゼノン朝下でキプロスの大主教アンテミオスがバルナバの隠された埋葬地を夢に見たと発表した。バルナバの遺体は洞窟でマタイによる福音書の写本を胸に抱えた状態で発見されたという; 同時代の講師テオドロスによれば、遺骨と福音書はアンテミオスから皇帝に献上されたという。バルナバによる福音書が古代に書かれたと主張する研究者の中には、478年に発見されたのはマタイではなくバルナバによる福音書であったと主張する者もいる; しかしこの主張はアンテミオスの発見した福音書に関するアンティオキアのセウェロスによる説明と食い違う。セウェロスは500年頃に件の福音書を調査したと述べており、マタイ書27:49に磔にされたイエスが槍で貫かれたと書かれているか調べた(が書かれていなかった)という。11世紀東ローマの歴史家ゲオルギオス・ケドレノスによれば、アンテミオスが発見したとされるマタイによる福音書のアンシャル体写本は当時も宮廷のステファン礼拝堂に保存されていたという。
※この「バルナバによる福音書に対する初期の言及」の解説は、「バルナバによる福音書」の解説の一部です。
「バルナバによる福音書に対する初期の言及」を含む「バルナバによる福音書」の記事については、「バルナバによる福音書」の概要を参照ください。
- バルナバによる福音書に対する初期の言及のページへのリンク