イギリス・インド軍・日本軍の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:10 UTC 版)
「マスタードム作戦」の記事における「イギリス・インド軍・日本軍の戦闘」の解説
スピットファイア戦闘機を用いた航空偵察の結果、サイゴン市街包囲を目指すベトミンによって周辺道路が封鎖されていることが明らかとなった。10月13日、タンソンニャット飛行場への攻撃が始まった。英印軍および日本軍によって撃退されるまでに、ベトミン部隊は管制塔から275mの距離まで接近し、また通信施設のドアまで到達していたという。ベトミンの撤退後、日本軍部隊に迫撃が命じられたが、日没頃には敵を見失ったために中止された:284。 10月17日までに第20師団を構成する全ての部隊がインドシナに到着した。C・H・B・ロダム准将(C.H.B. Rodham)指揮下の第100旅団は、ベトミンが存在すると目されたサイゴン北部・北東部のトゥドック、トゥーザウモット、ビエンホアに派遣されることとなった。この際、サイゴンの日本軍司令部に対し、23日から25日にかけて、同地域を占領し、法と秩序の維持に責任を負う旨を伝えた。また、日本軍部隊は旅団の指揮下に入り、ベトミンの武装解除、武器の捜索、主要な街周辺の掃討を続けるよう指示を受けた。 その後、ベトミンはサイゴン周辺の重要地点、すなわち発電所、ドック、タンソンニャット飛行場、水源である自噴泉への攻撃を試みた。これによってサイゴンでは定期的に停電が引き起こされ、銃声や爆発音、砲声などが頻繁に響くようになった。サイゴン市内の守備を突破できなかったため、ベトミンは包囲をさらに固めていった。この時点でイギリス軍哨戒部隊が包囲突破およびベトミンの弱体化を目的に攻撃を繰り返しており、新たに派遣されたフランス軍部隊も支援に当たっている:75。 10月25日、日本軍哨戒部隊がトゥーザウモット付近でロシア人軍事顧問を捕虜にした。これはソ連邦が当時の紛争に関与していた唯一の証拠とされている。ロシア人捕虜はトゥーザウモットに駐屯していた第1グルカライフル連隊(英語版)の第1大隊長シリル・ジャーヴィス中佐(Cyril Jarvis)に引き渡され、ジャーヴィス自身による尋問が行われたものの、重要な情報は得られなかった。その後はフランスの保安部(Sûreté)に引き渡され、消息不明となった。 イギリスはベトミンをサイゴンからさらに遠ざけるべく、戦力を結集させたタスクフォースの編成を行った。ゲートフォース(Gateforce)と名付けられたこの部隊は、ビエンホアに駐留する第13辺境軍ライフル連隊(英語版)第14大隊長のL・D・ゲーツ中佐(L.D.Gates)を指揮官として、英印軍のインド歩兵、砲兵、装甲車、および日本軍の歩兵大隊から構成されていた。10月29日、タスクフォースはサイゴンから東に位置するスアンロク(英語版)にて哨戒基地を設置、3日間の哨戒を経て、この方面に逃げ込んだというベトミン2,000名の追跡およびベトミン幹部らの捕獲に乗り出した。2日間続いた戦闘の陶、200名近くのベトミンが殺害され、人質として囚われていた民間のフランス人20名が救出された。 11月に入ると、仏領インドシナ高等弁務官兼仏軍司令官ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー海軍中将がインドシナに到着し、一連の作戦の指揮権がフランスへと引き継がれた。これによって第20師団は体勢を立て直し、治安任務をフランス軍に引き継ぎつつ、日本軍の段階的な武装解除に着手できるようになった。 11月18日、サイゴンから南に位置するロンキエン(英語版)に捕らえられていたフランス人の人質を解放するべくグルカ兵部隊が派遣された。途中、彼らは強力なベトミン部隊と遭遇して一時撤退を余儀なくされたが、数日後には戦力を増強した上で再派遣されている。当時の作戦に従事したグルカ兵によれば、元日本兵がベトミンの指揮を執っていた事例が何度かあったという。行軍中に古いフランス軍の要塞に立て籠もったベトミンによって足止めされた際には、ククリ(グルカナイフ)を用いた突撃が行われた。要塞の扉をバズーカで吹き飛ばしたグルカ兵は、ククリを抜いて内部へ突入し、守備隊との白兵戦を行った。ロンキエンへは同日中に到達したものの、人質は1人も救出できなかった。また、作戦を通じて80名ほどのベトミンが殺害された。
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