アーサー王物語との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:52 UTC 版)
「ヘンリー2世 (イングランド王)」の記事における「アーサー王物語との関わり」の解説
アリエノールの宮廷には『アーサー王物語』に組み込まれた物語を書いた詩人・物語作家たちが出入りしており、ベルナール・ド・ヴァンタドゥール、ウァース、マリー・ド・フランス、クレティアン・ド・トロワ、ブノワ・ド・サンテ=モール(英語版)、ブリテンのトマらが『トリスタンとイゾルデ』、『ブリュ物語』、『トロイ物語(英語版)』、『エレックとエニード(英語版)』、『ランスロまたは荷車の騎士』などを作り上げ、アーサー王物語は騎士道物語と宮廷恋愛が混じり合った作品として開花、アリエノールも宮廷を通じてアーサー王物語をヨーロッパ全土や東方に広めるのに一役買った。ヘンリー2世もアーサー王物語を気に入り、ベルナールとアリエノールの関係を疑い彼を妻から引き離したが、アーサー王を思い起こす叙事詩を庇護したことで妻と共にアーサー王流行に貢献した。 といっても、ヘンリー2世のアーサー王物語の復興と伝播には政治的意図もあった。それはアーサー王物語がカペー朝フランスへの対抗および自家の権威強化に役立つと考えたからであり、カール大帝の後継者を称するカペー朝が大帝と臣下たちの伝説を広めたのに対し、ヘンリー2世はかつてイングランドをスティーブンから解放した自分をアーサー王に重ねつつ、アーサー王と円卓の騎士の伝説を作り上げて対抗した。また、ヘンリー2世の母方の曽祖父に当たるウィリアム1世が敢行した1066年のノルマン・コンクエスト以来、少数派で支配層のノルマン人と多数派で被支配層のアングロ・サクソン人は仲が悪く、王家のイングランドにおける基盤も盤石とは言えなかった。こうした事態解決のため、ヘンリー2世は『ブリタニア列王史』に目を付け、サクソン人より前のブリテン島の住民・ブリトン人とノルマン人を結び付けるためにアーサー王物語を採用した。 ヘンリー2世の狙いはアーサー王の後継者として自分を位置付けることで権威強化を図ること、ブリトン人・ノルマン人の連合に邪魔だったアーサー王復活の民間伝承を否定して、ブリトン人が自分たちノルマン人に頼らざるを得なくする環境を作り出すことにあった。そうした目的でウァースにブリタニア列王史をラテン語からアングロ・ノルマン語に翻訳させ、ブリュ物語が誕生した。またウァースはアーサー王物語の発展に貢献、円卓の騎士を作り出したり、物語でアーサー王がサクソン人を討伐してから征服のため大陸へ渡るまで、平和な時代を築いたという表現で12年の空白を生み出したりしたことで、後世の作家たちが想像して数々の物語を生み出す余地を与えた。 アーサー王物語のクライマックスとして、ヘンリー2世は1184年に火災に遭ったグラストンベリー修道院(英語版)へ再建資金を援助した。一方でアーサー王復活を夢見ていたブリトン人の希望を打ち砕く噂が流れ、復活の時を待ったアーサー王は叶わず死んだとの噂が広まった。グラストンベリー修道院はアーサー王終焉の地・アヴァロンに擬せられ、ヘンリー2世の死後1190年に修道士たちが修道院の墓地にアーサー王と王妃グィネヴィアの墓を発見、宝剣エクスカリバーもアーサー王の墓から出たという噂が広まり、グラストンベリー修道院はアーサー王ゆかりの巡礼地として定着していった。 以上の伝説にどこまでヘンリー2世が関与していたか不明だが、アーサー王物語は騎士道物語として人々に受け入れられプランタジネット朝にアーサー王の威光が輝き、伝説の「発明」にヘンリー2世が果たした役割は大きく取り上げられている。以後もアーサー王にまつわる話が伝わり、ヘンリー2世とアリエノールの曾孫に当たるエドワード1世はアーサー王の王冠をウェストミンスターに持ち出したり、円卓を囲む習慣を持ち込んだりしている。
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