アルカ攻囲戦
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「エルサレム攻囲戦 (1099年)」の記事における「アルカ攻囲戦」の解説
1098年12月末から翌1099年1月初めにかけて、ノルマンディー公ロベールとボエモンの甥のタンクレードが、諸侯の中でも裕福で奉仕に対する対価を払うことのできるレーモンの封臣となることに同意した。一方、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、兄であるブーローニュのボードゥアンが占領したエデッサからの収入を得ていたため、レーモンの封臣になることを拒んだ。ボエモンはアンティオキアにとどまりアンティオキア公となる道を選んだ。 1月5日、レーモンはマアッラの城壁を取り壊し、1月13日にはマアッラを焼き払って南への行軍を再開した。レーモンは巡礼者の装束を着て裸足で歩み、ロベールとタンクレードが続いた。シリア内陸のオロンテス川渓谷を南下する間、大きな抵抗にはほとんど遭うことはなかった。諸都市のムスリム政権は争いを避け、十字軍に補給を行って早く通過してもらうことを望んでいたのであった。 レーモンは、ボエモンがアンティオキアを手中に収めたのと同様に、自分も領土を持ちたいと考え、地中海岸の富裕な港湾都市トリポリの占領を企てた。しかしその前に、レーモンはその近くの内陸の町でトリポリに属するアルカ(レバノン)(英語版)(Arqa、アマルナ文書や旧約聖書にはイルカタ Irqata あるいはアルキテ Arkite の名でも登場する)の攻略から行った。 一方ゴドフロワと、同じくレーモンの封臣となることを拒んだフランドル伯ロベールは、レーモンらとは別行動を取り、ラタキアに残っていた十字軍将兵らと2月に地中海沿いに南下を開始した。アンティオキアのボエモンも一時は彼らとともに行軍したがすぐにアンティオキアに引き返した。タンクレードはレーモンとの原因の伝わらない諍いの後、レーモンの指揮下を離れてゴドフロワ一行に合流している。ゴドフロワ一行に連動した別の分隊の指揮はベアルン子爵ガストンが執った。 ゴドフロワ、ロベール、タンクレード、ガストンらは3月にアルカに着いたが、レーモンによる包囲戦はまだ続いていた。アルカ市民は、アンティオキアやマアッラで市民が十字軍との戦いの末に辿った悲惨な運命を聞き、二の舞になるまいと死に物狂いの抵抗を行っていた。アルカで再び合流した諸侯の間では、不仲から来る緊張が高まった。同時に、聖職者の間でも緊張は高まっていた。教皇使節アデマールの死後、聖職者の指導者も不在となっていた。アンティオキア城内でのペトルス・バルトロメオによる幻視と聖槍発見は十字軍の士気を高めたが、一方でこれをインチキではないかと疑う聖職者は多かった。ついに4月、有力な聖職者のアルヌール(Arnoul de Chocques, Arnulf of Chocques, エルサレム陥落後にカトリック側の初代エルサレム総司教になる人物)がペトルスに対し神明裁判(火の試練)を行ってみよと言った。ペトルスは真実を証明するために火の中をくぐったが、大火傷を負って12日後に没した。レーモンの後ろ盾を受けたペトルスの発見した聖槍は、十字軍内のレーモンに対する権威を高めるものでもあった。そのペトルスが神明裁判に敗れ聖槍も偽物だという話が広まると、レーモンの権威も損なわれた。 アルカ攻囲戦は5月13日まで続いたが、攻める諸侯の著しい不仲と、守る住民の必死の抵抗で、まったく進展がないまま十字軍は攻囲戦をあきらめ包囲を解いた。レーモンの軍はここから海へ出て地中海側を南下し、逆にゴドフロワ・ロベール・タンクレードらは内陸に向かいヨルダン川渓谷を南下した。
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