アリス・イン・チェインズ及びマッド・シーズン
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「レイン・ステイリー」の記事における「アリス・イン・チェインズ及びマッド・シーズン」の解説
詳細は「アリス・イン・チェインズ」および「マッド・シーズン」を参照 1987年にリハーサルスタジオであるミュージック・バンクで働いていた時にシアトルで開かれたパーティーで、ギタリストのジェリー・カントレルに出会う。 その数ヶ月前にカントレルは故郷にあるTacoma Little TheatreにてAlice N' Chainsというバンドでのステイリーのパフォーマンスを観て彼の声に感銘を受けていた 。カントレルは家から追い出されてから住むところがなかったため、ステイリーが彼を誘い一緒にミュージック・バンクで生活することとなる。そういう訳で二人の親友同士はルームメイトとして一年にわたり荒廃したリハーサルスペースで共同生活を送った。 ほどなくしてAlice N' Chainsは解散し、ファンクバンドに加入したがそのバンドがギタリストを探していた。カントレルに加入を頼んだところ、ステイリーがカントレルのバンドに加入してくれるならという条件で同意に至る。その頃はドラマーとしてショーン・キニー、ベーシストとしてマイク・スターが在籍していたが、バンド名はまだ付けられていなかった。「あの声を持った奴と俺は一緒にプレイしたかったんだ。やせっぽっちのレインというよりも、350ポンドもあるバイク乗りから発せられる声のように聞こえた。あいつの声は自分の声になると思ったよ。」とカントレルは述べている。結局ファンクバンドは解散し、1987年にカントレルのバンドに専任メンバーとして加入した。 バンドの編成から2週間後にワシントン大学でギグを行い、2、3曲のオリジナル曲やハノイ・ロックス及びデヴィッド・ボウイのカバーを演奏した。彼ら(当時はバンド名をDiamond Lieと名乗っていた)の演奏はシアトル地区で注目を集め、結局はステイリーの昔のバンドの名前であるAlice N' Chainsに、その後Alice in Chains(アリス・イン・チェインズ)に改名した。それにあたりステイリーは以前のバンド仲間に名称を使用する許可を得ている。 アリス・イン・チェインズの曲と歌詞のほとんどはカントレルが書いていたが、やがてステイリーも歌詞を書くようになり、最終的にはアリス・イン・チェインズの曲全体の約半分は彼の作詞によるものとなった。「Hate to Feel」、「Angry Chair」、及び「Head Creeps」は作詞・作曲を手掛け、他の曲のメロディーラインも制作している。歌詞はドラッグの使用や鬱などの個人的な問題について書かれていると主に考えられている。そして「Angry Chair」と「Hate to Feel」ではギターも演奏している。カントレルは1999年のミュージック・バンク ボックスセットのライナーノーツ内の「Angry Chair」の箇所で以下のように述べている: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}実に素晴らしい曲だ。俺はレインがこれを書いたことをとても誇りに思うよ。俺が過去に@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ボーカルパートを強化した時[訳語疑問点]彼は本当に協力的だったし、そしてここにレインがギターでステップアップして傑作を書いた見事な例があるんだ。 1993年7月に日本の音楽雑誌のインタビューにて、詩を書く行為は自己満足ではあるが、自分だけのものとしてしまっておかずに世に出す理由について、恐らく多くの人々が彼自身と同じような感情を持っており、人によって状況は様々だとしても根底にある感情は同じはずなので、(詩を読んだ人に共感してほしいということではなく)必ずしもその感情を押し殺そうとしなくても他の処理方法、表現方法があることを人々に伝えたいと語っている。また、いずれは自分の詩集を出したいと思っており、絵や詩などを習ったことがないため一度きちんとアートスクールで学んでみたいとも話している。加えて、イギリスの音楽雑誌であるメタルハマーの1993年10月号にて、「俺たちはみんなを落ち込ませようとしてるんじゃない。むしろ、"一人じゃない"と伝えることで憂鬱な気持ちから引き上げようとしているんだ。」と語っている。 1994年にアリス・イン・チェインズは2枚目のEPである「Jar of Flies」をリリースし、チャートで初登場1位を獲得した。彼らにとって初めてのことであるとともに、EPが首位となるのも今までにないことであった。バンドのメンバー達はステイリーの状態の悪化を鑑み、Jar of Fliesのツアーを行わないことに決めた。EPのリリース後、ドラッグのリハビリ施設に入り、そして主にシアトル出身のミュージシャン数人と共にサイドプロジェクトとなるマッド・シーズンの活動を始める。 アリス・イン・チェインズの活動休止期間中、長期間のヘロイン乱用のために身体的変化が見られるようになり、薬物依存の噂がファンやメディアに広く知れ渡った。 1996年2月のローリングストーン誌で「ドラッグは何年間かは効いていたが、今は俺を攻撃し続けている。ヘロインがイカしたものだとファンには思って欲しくなかったのに、ファンが俺のところにやって来て親指を立てて見せ、ハイな状態で最高だと伝えてきたんだ。これこそ正に実際に起こってほしくなかったことだった。」と語っている。 彼のアリス・イン・チェインズのボーカリストとしての最終の公演の内の一つは、1996年4月10日にニューヨークで行われた MTV Unpluggedである。バンドは長期に渡り活動を休止していたが、「Unplugged」の収録のため再び公の場に姿を現し、これがバンドにとって実に2年半ぶりのコンサートとなった。
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