アジア地域開発博覧会とは? わかりやすく解説

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アジア地域開発博覧会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/15 04:21 UTC 版)

アジア地域開発博覧会
博覧会準備委員会が置かれていた愛知県庁舎
イベントの種類 特別博覧会または第二種一般博覧会
通称・略称 アジア博、開発博、地域開発博、中部圏開発博覧会、エクスペリメント中部'80 JAPAN 他
正式名称 未決
開催時期 1976年または1977年、あるいは1980年
会場 日本 愛知・静岡・長野・岐阜・富山・石川・福井・三重・滋賀の各県
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アジア地域開発博覧会(アジアちいきかいはつはくらんかい)は、1969年昭和44年)の桑原幹根愛知県知事の発案を元に、中部地方9県および名古屋市1970年代に計画した国際博覧会計画である。日本横断運河計画新国際空港誘致構想ともに、昭和30 - 40年代(1955 - 1974年)に提唱された中部圏3大地域開発プロジェクトの一つである[1]東京オリンピック大阪万博に続く〝第三のナショナルプロジェクト[2][3]〟と号して準備を進めたが、1974年、石油危機や列島改造ブームの終焉、桑原の政界引退などにより、計画は停止された。なお、この名称は構想初出から1971年9月まで使われた仮称であり、当時の文献・新聞記事等においても、名称の後ろに『(仮称)』と付記されている。仮称自体が数度変更されており1971年9月 - 1973年11月間は「地域開発博覧会」、1973年から計画消滅までの短い間に「エクスペリメント中部'80 JAPAN」とされた。略記法もアジア博、開発博、中部博、地域開発博、中部開発博など何通りも存在している。正式名称を定める前に計画そのものが消滅した。仮称改変後も「アジア博」と呼んでいる例が多々あることから当記事では「アジア博」と表記するほか、ことわりのない限り、1964年東京オリンピックを東京五輪、1970年日本万国博覧会を大阪万博と表記する。

概要

コンセプト

それまでの国家プロジェクト、すなわち東京五輪・大阪万博のような一か所に集中した「一点集中主義」を“古いもの”と否定し、これらが持っていた住民の環境を害する結果に至った「お祭り感」を一掃、パビリオンの類いも一切設けず、実際に中部圏開発整備法1966年・昭和41年制定)に基づいて中部圏で竣工が予定されていた「中部圏基本開発整備計画」の〝ありのまま〟の圏内各開発現場(新幹線、高速道路、灌漑事業、工業団地造成など『中部圏―計画』で謳われた諸々の計画事業)の姿を展示対象とした「〝あるがまま〟の博覧会」であり[4]、〝開発の成果ではなく、その過程を見せることを第一とし、中部圏づくりの中から地域開発の『こころ』や創造への人々の参加の喜びを知り、また学び取って〟(桑原)[5]、さらに中部圏と同じように開発途上にあるアジア各国に参加を求め、それら参加国に自国開発の参考にしてもらう[6] ことを目的とした博覧会である。

交通

開発現場である以上、会場は中部圏全域に点在しており、岐阜、高山金沢、富山、松本、静岡など広範囲にわたることが予想されるが、開催される頃には現況以上に発達していると予測される交通手段、例えば整備新幹線、高速道路など種々の高速交通網を駆使し、各地会場を自由に回れるようにする[6]

会場

中部圏開発整備法第二条に定める富山県石川県福井県長野県岐阜県静岡県愛知県三重県及び滋賀県にわたる広域

開催予定時期

二転三転を繰り返し、明確な設定は未決定のまま終わっている。当初1977年(昭和52年)としたが[7]1976年(昭和51年)のフィラデルフィア万国博と近すぎるということで、桑原は1978年(昭和53年)開催を要望する考えを明らかにし、国連の協力も要請する動きを示した[8]1971年4月時点では、中部圏開発整備事業期間が1968年(昭和43年) - 1985年(昭和60年)であることから、その間諸々の工事が高潮期を迎えであろう1976、77年(昭和51 - 52年)のいずれか、と再び変更[9][10]。計画最末期には1980年(昭和55年)が目標とされている。

経費

これも明確な試算はなされていないが、1972年に「1兆円」と報道されている[11]

出展物

先述の通り、「あるがままの開発現場」がそのまま展示物になる[10]。これらには、中部圏基本開発整備計画に則り完工・供用されたものもあれば、構想で消えたものもある。

開発現場名または構造物名 備考
伊勢湾架橋[10] 三重県志摩半島と愛知県伊良湖岬を結ぶ全長24.7㌔の大橋梁。総工費2900億円
国連大学[10] 京都、北海道らとともに岐阜県が誘致に乗り出していた。予定地は各務原市大自然公園内。建設費は最低7億2千万円。
東海北陸縦貫道路建設[10] 現在の東海北陸自動車道
国際貨物専用空港[10] 三河湾成田空港の二倍半の面積を埋立て造る。400屯積の巨大貨物専用機の離発着可。旅客機利用は想定せず。
北回り新幹線[10] 現在の北陸新幹線
大伊勢湾道路[10] 浜名湖から志摩まで一時間で結ぶ自動車道
環伊勢湾排水路[10]
美浜原子力発電所[12]
愛知県農業総合センター建設[12]
琵琶湖大橋改良工事[12]
立山連峰[12] 開発・工事内容不詳
福井臨海工業地帯造成[13]
利水事業[14] 愛知用水豊川用水など
港湾拡充整備事業[14] 名古屋港三河港
社会基盤整備[14] 愛知青少年公園愛知県心身障害者コロニーの建設など

これでは土木・建築工事の専門家ばかりでまともな集客が望めないことから[10]、中部圏のどこかに「中央会場」を作り一般人でも楽しめる“目玉商品”をつくる[10]、との案も下表のようにいくつか浮上したが、実現したものはない。中部圏基本開発整備計画にないものばかりで「あるがまま」に反するとの異論も生んだ[15]

「目玉」とされた財物または用役 備考
国際会議場[10] アジアの首脳が集い、地域開発会議を開く
地域科学研究所[10] 内外の地域開発の進め方を研究、展示
アジア開発巡洋船[10] 動く地域開発として発展途上国をめぐる大海船
公害のないモデル都市をつくる[10]
未来の交通展覧会[10]
海底プロムナード[10] 日本海に透明ガラス製トンネルを建造し"海底公園"を見学できるようにする(愛知県企画課長 新美富太郎)
人工都市[16] 豊橋市から浜松市にかけての浜名湖周辺にゼロから作り上げる人口25万の環境と文明の調和した都市
展示場の模型[10] 中央会場に橋・道路などの展示場の模型を並べて一般人に分かりやすく解説し、中、高生が寄ってくる"おとり"をつくる(名古屋大教授 横越英一)

発端から消滅まで

構想の誕生

桑原幹根

1969年(昭和44年)1月、桑原幹根愛知県知事は新春記者会見で突如「アジア地域開発博覧会」というプロジェクト構想を表明した[17]。「地域開発の先進モデル」として中部圏を会場とし、愛知用水東名高速道路中央道恵那山トンネル、TKA開発、名古屋市の都市計画など中部圏で行われた地域開発「中部圏基本開発整備計画」の適例がアジア諸国の地域開発にとってのよい参考にしてもらうべく、博覧会の形で世界に公表するのだ、という[17]

表明後初めての定例県議会が2月に始まったが、さっそく与野党から博覧会に対する質問が複数出された。桑原は「『あるがまま』の博覧会としてまずはアジア地域開発博覧会と仮称をつけた。今は具体的に宣伝、PRする必要はない」と答弁[18],6月定例会では「後進国に中部圏開発の状況を参考してもらいたのが趣旨、開催時期は1977年頃が適切か、地域開発の生の姿を見せるのにパビリオンなどは必要ない」「後進地域に援助資金を出すより、有効な援助方法だ。特に会場建設の要もなく、海外からの出展についても相当時期が進んでから考えれば十分と思う」[19]と表明した。「中部圏開発整備そのものに一層力をつける起爆剤の一つにする[20]」というように、地域利益誘導の要素も多分にあった。

桑原のこの“今年の初夢[18]”は多分に、1964年(昭和39年)加盟国の都市問題を視察調査するため国連から名古屋に派遣されたワイズマン調査団がそれまでの“中京圏”を否定、代わりに「中部圏」という新概念を日本人に与え、「中部圏の問題は太平洋岸の工業地帯と日本海側の過疎地域との結合によって緩和される」と勧告したこと、東京五輪、大阪万博を見越して制定された首都圏整備法近畿圏整備法が、国に大きな裁量権を与えていたのに対し[21]、そうした前提がない「中部圏開発整備法」が、計画立案の権を地元自治体に与えていたこと、東京大阪の経済圏に属さない中部の地方自治体の多くが“野に放置された流浪の民”のように独力では資金力が足りず大都市並みの産業、文化を築けない[22]ことも発想の基礎になっていると推察された[23]。また前年の1968年(昭和43年)、名古屋市が人口で横浜市に抜かれ、大正末から数えてわずか47年で日本三大都市の座から転落したというできごとが、巷間に「名古屋は日本の三大都市から絶対に落ちるわけにはいかん」という焦燥感と「東京大阪に負けない何か」を希求する感情をもたらしてもいた[10]

1969年11月、犬山市での中部圏知事会議席上、桑原は「万国博閉幕後の国際的行事として、中部圏を舞台にした『アジア地域開発博覧会』を開催することを目標に、来年度から国家投資を中部圏に集中させる」と改めて公言[24]。同時期、名古屋市内で日商新会頭に就いたばかりの永野重雄就任披露パーティーがあったが、永野は挨拶で「名古屋で何か国際的な催しをやろうというのなら、日商としてもお手伝いしたい」と博覧会の側面的支援に言及した[2]

明けて〝日本中が万国博に明け、万国博に暮れた年[25]1970年(昭和45年)を迎えた。全国知事会会長桑原は「地方自治体館」の館長でもあったが[26]、「県政の総仕上げ[3]」と号し、愛知県をはじめとした中部圏の開発のさまが「手法においても目標においてもそのまま開発途上国への恰好な展示物になる[27]」、「陸続と成功を収めつつある地域開発事業をアジアの発展途上国に見てもらい、彼国での開発事業に大いに参考してもらう[28]」、「イベントの中心に国際的な会議・集会の場を置き、地域づくりの過程と現状を出展プロジェクトにし、未来を考える展示資料にする[29]」とアジア博構想を揚言し続けた。愛知県は、文部省の要請や〝集団割引があるから[30]〟と県内小・中・高校の万博見学を指示したり[31]、愛知県観光協会がボランティアの通訳を提供するなどしたが[32]、その排他的な県民性が災いして万博には無関心な土地であると、政府から睨まれていた[33][34]

大阪万博への羨望と「次は名古屋」発言

『国家的プロジェクトは、国の公共投資を集中的に投入でき、経済基盤と都市づくりが急速に進展する』、この漠たる観念は東京、大阪で実証された[35][36][10][3]。さらに1972年2月冬季五輪予定があった札幌市にも集中投資で懸命な都市開発が進んでおり[37]、“博覧会がないと太れない名古屋[38]”は都市間競争の後塵を拝した[3]

国家プロジェクト名 開催年 準備期間 総経費 うち関連公共事業費率 関連公共事業費の使途
東京オリンピック[39] 1964年 3年 1兆800億円 98.5% 首都高等の道路整備・東海道新幹線・下水道整備等
大阪万博[39] 1970年 2年 9520億円 94% 阪神高・中国道等道路整備・大阪市地下鉄・河川整備等

東京五輪同様、予算総額の実に9割以上を「都市改造」に費やした万博のおかげで、近畿圏は中国自動車道3車線化など「近畿圏整備計画」を予定より10年も早く達成[36]。海外のテレビ局の衛星中継などもあって大阪の国際的地位はここに向上し[40][41]、万博帰りの都民が帰京後も真似して喋っていた関西弁のいくつかは後に標準語化し、ここに地域文化の全国的拡散が成るなど[42]、160億円超という『歴史に前例のない巨額の黒字―しかもその殆どが国庫に戻らず地元大阪府の懐に入るという―[43]』を叩き出したアジア初の万国博覧会は〝これまですべてのアジア人が手にしたことがないであろう栄誉と利潤[44]〟を近畿圏にもたらした。それにひきかえ中部圏・愛知県周辺は、北陸新幹線名古屋市高速道路ともに全く手つかずであるなど「中部圏開発整備計画」の進捗はひどく遅れ[45][10]、中部圏の開発行政に携わる者たちは「東京、大阪はうまいことした、なんか人の集まるものがないかと寝ても覚めても考えたが、正直言ってオリンピック、万国博に匹敵するものはない、もうひとつくらい世界的行事が残っていれば」(中部圏開発整備地方協議会委員酒井正三郎南山大教授)[10]と羨んだ。

1970年9月13日大阪万博は閉幕した。閉幕式後の記者会見で佐藤栄作首相は「東京でオリンピック、大阪で万国博を開いたのだから、次は名古屋で何か行わなければならないと思っているが、何をするかはまだまとまっていない」と発言[43]。これが再び名古屋周辺に火をつけた[46]。実のない発言で政局を操る老獪な佐藤の発言の本心は怪しく、“効き目”が消衰する前に念押しの要がある、と桑原は判断、「翌年予定の県知事選の自民党推薦証書を受け取るため」という建前で、わずか3日後の9月16日上京し、直接自らの手で佐藤に博覧会を陳情しようと試みたが、党内は同じ公認・推薦候補者らでごった返しており目的を果たせなかった[10]

だが、国家的行事の巨大効果を2度も目の当たりにした自治体首長や地元財界らは、桑原の周辺に“急速に群がってきた”[2]。すなわち月が替わる前に早くも佐藤保豊田市長が、大阪万博の「調和の広場」のような博覧会シンボルゾーンを市内伊保原台地に誘致したい、と表明した[47]近畿日本鉄道も、三重県・愛知県を含んだ博覧会構想には大いに興味を寄せた[48]

およそ2週間後の9月定例県議会では早速中部圏での国家イベントについての質問が相次ぎ、桑原は「中部圏開発整備の成果を開発途上国に見せ、参考させるとともに、中部圏の一つの起爆剤にも位置づけたい」と答弁している[20]。9月26日、名古屋市議会でも質問が出て、杉戸清市長は「アジア博メイン会場を名古屋に設けるか否かは時期尚早で今は言えないが、五輪・万博に次いで名古屋で何かをしたいというのは大方の意見なので市を挙げて考える」と前向きな答弁をした[49]

続く11月12日に開かれた第9回中部圏開発整備地方協議会の席上、同会会長でもある桑原は「中部圏づくりの成果をアジア諸国に見てもらいたいと思っていた。博覧会とするのが適切かどうかわからないが、“仮に”アジア博覧会ということで理解されたい。佐藤首相の『次国家的事業は中部』の発言から、当会には意思表示と構想整備の必要がある」と挨拶[50]、満場一致で、仮称を「アジア地域開発博覧会」とし、これを国家的事業として開催すること、そのための準備委員会設置を決議したが[51][52]、その具体的中身は、各県の思惑が入り乱れ全くまとまらなかった[2]

年が変わり1971年(昭和46年)2月、六選を目指す桑原は愛知県知事選に臨んだ。保革一騎打ちとなったこの選挙では、博覧会構想は控えめにして[53]、「自然保護・公害除去」を前面に出して戦ったが[54]、東京・京都など大都市で陸続と革新首長が誕生する時代的潮流と多選批判に面して苦しんだ[55]。愛知県豊橋市出身の詩人、丸山薫毎日新聞に「アジア開発博に寄せて」と題して寄稿し、桑原構想を批判した[56]。辛勝した桑原は再び国家的イベント誘致に向けた動きを示し、2月16日上京のうえ、佐藤首相、福田赳夫大蔵大臣ら政府首脳にアジア博の考えを伝えようとしたが、多忙を極める両者との会話は数分の立ち話で終わり、まったく実を上げられなかった[57]ものの、2月27日に開かれた選挙後初の県議会2月定例議会において、「アジア地域開発博覧会の基本構想の調査費用」及び「推進協力体制整備費」を計上、可決させた。

博覧会構想はひとり愛知県だけで開催するものではない以上、桑原の一人の手から、愛知県庁に設けられた「中部圏開発整備地方協議会事務局」が窓口となり、中部圏全体での「副知事会議」さらに「知事会議」での協議で形作るように変わっていった。その中部圏副知事会議がまず1971年3月に開かれたが、桑原の構想が「『中部圏開発』と『国際的行事』のどちらを主としてるのか博覧会としての概念が判然としていない」および「そのためには、準備委員会よりも先に基本構想が必要だ、まず事務局にたたき台となる試案を作らせよ」という、2つの見解で一致した[58]

他県からの批判

さっそく事務局は「基本構想作成指針事務局試案[注釈 1] 」を作成、8月に再度開かれた副知事会議に提出されたが、「何もアジアに限定する必要はない」、「“アジア博”では日本がアジアの盟主だ、というニュアンスを含んで誤解を招く」との意見が出て[2]、つづく9月の知事会議でも同種の異論が出たため、「アジア」の字句を削り「地域開発博覧会」と改称した[59]。なおこの名称も依然、仮称である。

この知事会議では、桑原が直近の知事選苦戦で支持率低下を露呈したこともあり、各県知事が「開発中心ではなく環境保全を盛り込むべき」「世界的なものにしては、迫力に欠ける」「単なる橋や道路だけではお国自慢に堕するうえ、そもそも日本よりも、先進諸国の方が開発は優れている」といった、それまでのモヤモヤした疑念が一気に噴出、事務局が腐心したせっかくの試案も、学識経験者らの意見を盛り込むものに作り直すことになった[15]

明けて1972年5月22日、事務局は第二次試案「地域開発博覧会(仮称)の基本的考え方」を副知事会議に提出したが、「地域開発に関する学術的メッカを中部圏に建設」「地域開発を主題とした展示を催行」「記念施設建造」などが盛り込まれていた。副知事会議では桑原構想の要の「国際博覧会」という形式自体が問題視され、「『ありのままの姿を見せる』という原義がない」「アピール力は高まるが大阪の二番煎じの恐れがある」「国際条約の制約を受ける」「会場が一ヵ所に絞られ中部九県のすべてを会場にすることができなくなる」と指摘され、「国家的事業としてできる国際博以外の形を模索すべきだ。原点に立ち返って再検討すべき」との結論に達した[15]

つづく6月2日の知事会議では桑原も「狙いは中部圏開発整備に国家投資を誘引することであった。広く見せるという意味で博覧会としたが国際博にまでする考えではない。博覧会に主力を奪われ開発が遅れてはいけない。開発整備目標年度は昭和60年(1985年)であり、なお時間があるから原点に戻ろう」とすっかりトーンダウンしてしまい、ここに計画は暗礁に乗り上げた[15]。同時期、中部圏基本開発整備計画も基本計画、建設計画から保全計画の段階に入っていた[60]

列島改造論で再浮上

1972年7月、「日本列島改造論」を掲げる田中角栄内閣が成立した。2か月後の9月18日、福井県敦賀市で開かれた第21回中部圏知事会議は、「列島改造ブーム」の影響で、以前までバラバラであった出席者の結束が強まった感があった[61]。会議は「中部圏の開発計画と列島改造論は同じ理念を持ち、しかも中部圏はそれより6年も前にその理念を先取りしていた。9県一体となって策定した中部圏版の列島改造論に基づく『日本列島改造のモデルを中部圏で見せる“地域開発博覧会(仮称)”』を昭和55年(1980年)に開催する」との声明を全会一致で採択[61]、一度は原点に返ってしまったはずの構想が、ここに以前よりも“たくましく”なって帰って来たのであった[61]

さらに「中部圏への国家投資の集中的導入」「関係施設はイベント終了後も恒久的に残るものにする」ことが確認された[62]。一方において、北陸三県からは「林・漁業など一次産業への配慮がない」、三重県から「福祉がおざなり」など博覧会構想というより列島改造論そのものへの批判もあった[61]。ここに至ってなお相変わらず、具体的開催内容は何一つ決定しておらず、「調整事項や具体的事業内容は1974年(昭和49年)頃に骨子を完成させその後肉付けしていく」と発表されたのみであった[63]

ともかく再び前進した構想を見据え、愛知県は、愛知青少年公園の二次整備、身障者コロニー、陶磁器資料館などの建設整備を進めた[64]。田中の列島改造論に「人口25万の人工都市を全国に100ヵ所造る」というものがあり、それに乗った三河地方には、愛知静岡にまたがる三遠地方に人工都市を作って博覧会の目玉にせよ、という声もあった[16]

1973年9月、事務局が以下を内容とする「地域開発博(仮称)調査研究報告書」をまとめた[2]

  • 名称は『開発』を避け“エクスペリメント中部'80JAPAN(仮称)”。
  • メインテーマを『人間と環境』にする。
  • 出展物は各県から海、山、緑、水、都市、農村、教育、文化などの『現物』を出す。
  • 中部圏全域を開催区域にし、国家的事業としての国連人間環境会議のような福祉色を出した国際会議と中部圏開発整備事業による『複合的な事業』とする。
  • 1980年(昭和55年)に開催し、期間を6か月とする。

これらは同月の副知事会議を経て、11月1日三重県賢島での中部圏知事会議にはかられ[65]、ついに『準備委員会』の発足を見た[2]。桑原は会議直後その足で、愛知県選出の自治大臣江﨑真澄に発破をかけ、1974年度予算編成に420万円の「中部圏地域開発博覧会調査費」を盛り込ませることに成功した[66]

オイルショックですべてが終わる

ところが同時期の1973年10月、第一次オイルショックが発生した。さあこれからという11月16日、政府は石油緊急対策要綱を閣議決定、インフレ回避のため「総需要抑制策」が採られた。国内消費は一層低迷、北陸新幹線を含む整備新幹線計画など大型公共事業は軒並み凍結・縮小された。12月には名古屋都市高速道路調査専門委員会が「建設中止の意見多数」と報告した[67]。他地域のイベント計画も後退を余儀なくされており、海洋博の着工に入っていた沖縄では田中批判、列島改造論批判の県民運動が高潮し、海洋博は延期された[68]

元来、博覧会計画の骨子を定めるはずだった1974年(昭和49年)に入るや、長良川河口堰訴訟、名古屋市南部の新幹線騒音訴訟など公害問題が立て続けに中部圏の地域社会表面に噴出した[69]。6月国土庁が発足すると中部圏開発整備本部は、同庁に吸収され名古屋から姿を消してしまった。このことは総需要抑制策と合わせて中部圏の公共工事を次から次へと遅滞させ、博覧会の出展に供するなど到底おぼつかなくなってしまった[70]

"開発知事”からのイメージ脱却が困難な桑原に、知事選で勝てる見込みはないと自民党は判断[71]、4月に首相官邸で行われた日米知事会議の席上、田中首相から「知事を辞めて参院選に出ては?5月までに決めてください」と暗に引退を勧められた桑原は[66]、自身の79歳の誕生日である8月29日「次知事選には出馬しない」と引退を表明。〝後任者にやっかいな間題を残しておかないよう後始末をつけておくための配慮[72]〟として9月25日の定例県議会で「地域開発博は再検討する[73]」と、ついに計画の凍結を表明した。これは「事実上の計画中止」と考えられている[72]。 12月には列島改造を一枚看板に掲げてきた田中内閣も総辞職してしまった。後年、桑原は「地域開発博が一番の心残り」と嘆じた[72]

明けて1975年(昭和50年)、この計画は「陽の目を見なかった」[74]と言われ、同年2月就任した新知事・仲谷義明の公約にも博覧会構想は含まれていない[75]。構想最初期に開催予定年度とされていた1977年には「まったく忘れられた存在[76]」、1978年にも“立ち消え”[77]と言われている。それと入れ代わるように、“中部圏への国家投資の集中的導入”を狙って出現したのが『名古屋では今でも会話に持ち出すことさえ憚られる[78]』"名古屋オリンピック構想〟である[79][80]

総括

地域開発は見せものではない

石橋を叩いても渡らない、堅実一辺倒と揶揄されてきた名古屋人にしては、生活の一番基礎となる部分から出発した、かなり思い切った挑戦と言え、画期的なものと言える[6]のだが、これでは博覧会ではなく現場見学会であり、また面積に例を見ない広がりを持たせた分、計画が空疎に見え、その進展も甚だ遅く具体性に欠けるわりに、予算は沖縄海洋博の事業費総額3,400億円[81]に対し、中部圏整備開発計画分を除いた純博覧会費用だけでも〝一兆円[11]〟と大阪万博とほぼ変わらない見積金額を提示しているのだから「国や政府からは白眼視されている[6]」。地方開発協議会や知事会議といった行政サイドにしか議論の場がなく、遅々とした計画進行に業を煮やした民間の間で、中部開発センターが「世界21世紀博」と号して具体策を提言[82][83]名古屋大学の都市工学者に東京・京都の専門家も加わった学術研究者集団『プランXの会』もテーマや建設計画を提言[83]して行政の尻を叩いていた。

構想にある「会場は中部圏全域」というあまりに壮大な考えが、却って開会の狙いやテーマを大きくぼやけさせ、「大阪の二番煎じ、猿マネ」との批判は中部圏の住人の間にも終始消えず[35]、東京大阪に比して威容を欠く名古屋での国家的事業など「いつのことやら」と訝しく思われていた[84]。桑原が構想表明してから数年を経てなお具体案作成は難航を続けており、流動的なままで何一つ明確なビジョンが打ち出されずに[85]消えたのも当然で、地域開発はそもそも「見せ物ではない[50]」。

さらに、よりによって万博が終わって全国各地の開発公害がクローズアップされ始めたというその時に、桑原・愛知県の一人相撲で「開発」を前面に押し出した計画であるから、とんだ火の粉をかぶることとなった周辺県から、おびただしい反駁を加えられる羽目に陥ったのは既述の通りである。足下の愛知県議会内部にも〝県民の利益につながらない〟この無謀な計画をやめさせようと考える人々がいた[86]

大阪万博の前ではなにもかもが色あせて見える

『祝名古屋まつり/日本万国博覧会大阪開催』のパネルをつけて走る名古屋市電1966年

大阪万博はアジア博と異なり、知事ではなく民間(大阪商工会議所)の提言を発端とするも[87]、その後の推移は、「東京の次は大阪」というありきたりの主張[88]、既決定事項は「博覧会をやる、ということだけで他は全てが未定[89]」、万博の中身よりもその経済効果を論じるばかりで、「太閤さん以来の世直し」「関西地盤のかさ上げ」など地域ナショナリズムを前面に出し続けたことから、東京の政・財・官・民すべての傍観者的冷淡な態度に迎えられていた[88]。と、ここまでアジア博と変わるところはない。

しかしながら「国土均衡を考慮すれば、西日本で国家的大プロジェクトのお祭りを催すべきで、国民に東京の殺伐としたニュースを忘れて楽しんでもらいたい」から「日米安保条約改定を迎える1970年に、東京から大衆の目をそらす要がある」まで、種々の永田町霞が関の政治的思惑が途中から合流し、「西日本に四通八達の交通網」を有し、且は「東京の対立軸」という彼らの目的にかなった開催地・大阪は広汎な注意を集め[90]、与党が「万国博施策に全面的な責任を負う」という態度を持して万博関連投資を拡大[91]菅野和太郎通産大臣をして国が「支援する」のではなく「国が〝やる〟」とまで言わしめた国家直営事業の様相を呈しはじめ[92]、ついには〝役人・知識人・財界人・芸術家・技術者を、ワクを超えた大仕事のために結び付けた[93]〟〝国家総動員[94]〟の大事業にまで昇華したのである。中央政治を忘れさせるだけの大衆動員力を万博に期待するとき、後背地に京都奈良をしたがえた大阪ほどに優秀な開催地はなく[95][96]、協会が後押しした「なんと35回も〝こんにちは〟が出てくる[97]」テーマ曲は、開幕3年も前の発売以来、大阪のみならず東京[98]九州福岡[99]でも広く大衆に受容され、果てはハワイでも歌われ[100]ここに一つの〝日本民族の歌[100]〟となった。

さて、中部圏・名古屋で桑原の構想が表面に出てきた時期というのが、これは佐藤発言のせいもあるが、かくも膨大な特徴に彩られた〝恐るべき経済怪獣[101]〟、今日なお「有史以来最大[102]」「民族大移動[102]」「日本イベント史にその名を刻む圧倒的な金字塔[102]」と評されるほどに超巨大規模の大阪万博の直後という、非常にまずいタイミングであって、どれほど壮大さや国際性や大規模さを主張しても「(大阪からの)格落ちもはなはだしい。オリンピックのあとにアジア五輪をやるようなもの[103]」という批判を跳ね返すことは不可能であるし、どれほどの目玉や意義を用意したところで「じつに目玉のない博覧会といえよう。なにより中部で実施する意義が少しも固まっていない」[46]という批判を甘んじるより外なかった。 大阪との決定的相違点は国政の支持がアテにならないものであったことで、そもそも〝次は名古屋で〟と中部圏を焚きつけた張本人、佐藤栄作からして名古屋ではなく、自身が本土復帰に関与し可愛がった沖縄県の国際海洋博覧会の指導に注力しており[104]、沖縄海洋博を終えた国が次に取り組んだプロジェクトは、同じ開発絡みでも中部圏ではなく、茨城県の開発地で開いたつくば科学博であった。ともかく、国土計画堤義明が乗り出した長野五輪を除けば、一体にして世界卓球選手権や名古屋オリンピックなど、この地方が考えつく催事計画には中央の風の流れに乗り切れないものが多い[105]

国際博覧会は国際オリンピックより難しい

仮に目玉なり、中部で実施する意義なり、具体計画が速やかに決定したところで、国家投資が確実な"国際博覧会[注釈 2]"として開催するならば、当時の「国際博覧会に関する条約」同一国開催規定によりすぐには開催できなかった。〝真に万国博覧会と名乗るにふさわしい[106]〟のは第1種一般博覧会であり、大阪万博が実にこれであったが、開催は最短で1985年以降でなければならず、会期終了後は施設撤去が義務づけられ、アジア博の「関係施設はイベント終了後も恒久的に残るものにする」とは相容れない[35]。すると第2種になるがそれでも1980年以降でなければならないうえに、被招請国による展示館・陳列館の建造も禁じられており[35]、どちらも不適であれば〝テーマは一つに絞られ、デザイン特許保護もなければ治外法権も働かない[106]特別博覧会しかなかった。

特別博覧会でテーマとすべき内容も「限られた一つの応用科学または技術」のみで[107]、1973年11月の知事会議で採られた『人間と環境』のような漠たるものは認められない。事実、後年のつくば科学博(1985年・特別博覧会)はテーマ『21世紀の暮らしを創造する科学技術』が〝概念が広すぎて一般博もどき〟とBIE・博覧会国際事務局から警告され変更の止む無しに至ったうえ、海外館から「日本企業館は改変後のテーマに沿っていない」とのクレームが発生して、BIEで議論されるまでになってしまったのである[108]

アジア博構想の存在を知った大阪万博関係者も、中部圏はこうした課題をどうするつもりなのかと首をかしげている[109]。当時の報道記事をみると、特別博と第2種一般博とをいったり来たりしており、果してどちらにする予定だったのか判然としないが、「2005年日本国際博覧会 愛・地球博」は開催時、特別博覧会(現・認定博覧会)であり[110][111][112]、地元(愛知・三重・岐阜の東海3県)以外からの入場者が全体の3割しかいなかった[112](大阪万博の近畿圏外の入場者は53 - 54%、うち関東圏が13%[113])。

いずれにせよ国際博ともなれば、当時の世界不況のさなかだけに参加国・出展国は自ずと少なく、開催内容への条約規制も厳しいことから、他国に左右される国際博を断念して、計画裁量の余地が開催国に大きく与えられ妙味のある五輪構想に切り替えるのが賢明と判断された[114]。かかる五輪構想もまた〝中部圏への国家投資の集中的導入〟に至ることなく終わったが、ほどなくして名古屋城博(1984年)、世界デザイン博(1989年)といった小規模地方博に舵を切り、ソウル五輪があった1988年(昭和63年)、再び国際博覧会誘致の準備を開始したのである[115]

脚注

注釈

  1. ^ 『アジア地域開発博覧会(仮称)』基本構想作成指針事務局試案 【開催の趣旨】人類の繁栄を推進するため、我が国の地域開発の現状を広く世界諸国に紹介、また地域開発を未来社会建設のための国際的実験の場として提供するような企画を国家的事業として提唱する。我が国の地域開発は国土全域に展開されているが、中でも中部圏は開発整備方法や、地域構造の多様性において象徴的なものといえる。したがって地域開発を主題とした国家的事業を実施するとすれば、中部圏はもっともふさわしい地域といえる。我々が提唱する「アジア地域開発博覧会」(仮称)は、このような趣旨にもとづき、中部圏を舞台とする国家的事業として開催されるものとする。【基本的事項】①基本方針=我が国の地域開発の現状を中部圏を舞台としてアジア諸国に紹介する。また中部圏の地域開発を国際的な実験の場として提供することを基本方針として計画する。②名称=アジア地域開発博覧会は仮称で、今後事業に相応しい名前を決めるが、地域開発を主題としていることを表現するものとする。③統一主題=事業目的を明確にするため、統一主題、副主題を選定する。④事業区域=中部圏開発整備法に基づく中部圏の区域内で実施する。⑤事業内容=中部圏における地域開発の成果と過程の展示、記念施設の設置、記念事業の実施などにより構成する。⑥展観方法=成果、過程の展示、記念施設の設置、記念事業などは中部圏の各地域に配置、全体的に広域周遊の可能な形態を備えたものとして計画、地域住民やアジア諸国の理解と参加を容易にする配慮が必要。⑦開催時期=中部圏基本開発整備計画の中間年度(昭和五十二年度)以降の適当な時期を選定して実施する。期間は一年間内外の期間を定めて実施する。
  2. ^ 当時の定めるところによれば、「国際博覧会に関する条約」に基づいて開催される博覧会を総称して「国際博覧会」といい、また「万国博覧会」ともいう。これは国・公法人直営の公式博覧会と国の承認を受けた公法人ではない法人が運営する公認博覧会があるが、いずれも国の援助を受けるものとされている。これら国際博覧会でないものが地方博覧会であり、神戸ポートアイランド博覧会横浜博覧会のように地方自治体と私企業で出資元が構成されることが多く、国補助はそれを許す特別な立法がない限り、海外広報活動など間接的なものにとどまることが多い。

出典

  1. ^ 堀内英己「10月のIOC理事会に照準」『地方行政』第7216号、時事通信社、東京、1979年、10-12頁、NDLJP:2765729/6 
  2. ^ a b c d e f g 「《特集 東海経済圏》可能性を秘めた東海圏の新動向と今後の課題」『実業の世界』、実業の世界社、東京大阪、1974年6月1日、119-123頁。 
  3. ^ a b c d 「佐藤首相発言でにわかに活気づく 『アジア博』実現に結集する中部政財界」『経済展望』第42巻第21号、経済展望社、東京、1970年11月15日、36-39頁、NDLJP:2271961/17 
  4. ^ 「一問一答 答える人 愛知県知事(全国知事会会長) 桑原幹根 訊く人 高島耕二(新日本経済社社長)」『新日本経済』8月号 中部圏特集号 <開発・経済・産業・財界・会社>、新日本経済社、東京、1970年、24-27頁。 
  5. ^ 中日新聞 & 中部総合開発推進委員会 1972, p. 373.
  6. ^ a b c d 「ふるさと風土記 愛知県 -アジア博のもたらすもの-」『太陽』6月号、平凡社、東京、1970年5月12日、145-151頁。 
  7. ^ 岐阜県議会史編纂委員会 編『岐阜県議会史』 第5巻、岐阜県議会、岐阜、1984年、593頁。NDLJP:9672098。「まず武藤議員は、中部圏知事会議で構想が練られているアジア地域開発博覧会と国連大学を裏表一体のものととらえ、アジア博のアウトライン、並びに同大学誘致の経過を尋ねた。これに対し平野知事は次のように答弁した。/東京オリンピック、大阪万博に次ぐ世界的行事を中部圏でやりたいということが動機となって、中部圏知事会議でアジア地域開発博覧会をやろうという話し合いが進んでいる。これは特定の地域に施設を造るのではなく、中部圏全体を会場とし、あるがままを世界の人たちに見てもらうのである。昭和六〇年以前に開くことができれ、同年をめどとしている中部圏開発計画の促進剤の効果がある。政府には桑原中部圏知事会議会長(愛知県知事)から正式に申し入れることになっている。開催の時期、方法等はまだ話し合いの段階であるが、私個人の考えでは一九七七年(昭和五二年)が適当だと思う。」 
  8. ^ 「自動車郷土史<1> 愛知県 “日本のデトロイト”をめざして」『自動車販売』12月号、社団法人日本自動車販売協会連合会、東京、1970年11月30日、58-59頁。 
  9. ^ 「特集 中部 特集その1 日本の「ヘソ」中部圏を語る」『財界』4月15日号、財界研究所、東京、1971年4月15日、96頁。「桑原 中部圏開発整備事業は昭和六十年を目標に進められているわけですが、その各工事のクライマックスになるのは五十一年か二年ごろになる。そこでこの頃に開催して事業の進行状況を開発途上国の人々に見てもらう、というのが狙いです」 
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「次は名古屋だ “アジア博”にかける中京政財界」『週刊朝日』10月2日号、朝日新聞社、東京、1970年、27-30頁。 
  11. ^ a b 「円新時代に挑戦する中部経済圏」『野田経済』5月24日号、野田経済研究所、東京、1972年、64頁。「当面、開催時期は一九八〇年―つまり昭和55年ごろが一つの目標になっている。建設経費は中部圏計画の経費を除いて約一兆円とも見込まれていることなどがあって政府を動かすまでの計画とはなっていないが、地元・中部経済圏では慎重な具体策を練っているので、実現の可能性なきにしもあらず。」 
  12. ^ a b c d 「あるがままに描く人と自然のドラマ 踏出す『地域開発博』」『毎日新聞』1972年2月20日、東京版朝刊、22-23面 複数社見開き2面全面広告記事(西濃運輸・青柳ういろう・日本碍子・頭痛にノーシン・ホテルナゴヤキャッスル・中日本装備・志摩パール・美容理容メンズサウナ「クジライ」・高級装飾品の店Boutique CASTLE)。
  13. ^ 中日新聞 & 中部総合開発推進委員会 1972, p. 205.
  14. ^ a b c 「住みよい地域社会をめざす 愛知県知事 桑原幹根」『中部財界』1974年1月号、中部財界社、名古屋、1974年1月1日、22-23頁。 
  15. ^ a b c d 酒井 1972, p. 12.
  16. ^ a b 宮脇良一「日本列島改造と東三河」『宮脇良一 対談集1 郷土の明日を考える』東海日日新聞、愛知県豊橋市、1974年9月30日、60-67頁。 
  17. ^ a b 東海経済懇話会 編『東海経済の推進力 懇話会の活動概要』 総括編、東海産業経済調査所、名古屋、1974年11月25日、132-133頁。NDLJP:11916171。「それから〝アジア地域開発博覧会の構想〟につきましては、伊藤さんからいわれて新春随想として書いたもので、新春の記者会見でも述べました。それは中部圏を会場とした"あるがままの博覧会"であります。国際的な地域開発の先進モデルをめざして“中部圏づくり”をしっかりやろうという熱意をもってこの夢を描いたのですが、これには愛知県だけでなく、中部圏という広い視野に立って、国際的にも注目されている愛知用水、東名高速道路、中央道の恵那山トンネル、TKA開発、あるいは名古屋市の都市計画など、中部圏で地域開発の適例が多く考えられます。中部圏におけるこのような諸事業は、アジア諸国の地域開発にとってよき参考になると考えます。それに当地にある国連地域開発調査訓練計画中部センターには東南ア諸国、イラン、ブラジルから研修員が来て“中部圏づくり”をモデルとして研究していますが、こういう人たちにも参考としてもらえるでしょう。新春五日に坪川建設大臣に対して要望した名古屋環状二号線、都市高速道路などが建設されれば、これも出展物となり、この博覧会もより現実的になるでしょう。"中部圏づくり"の具体的諸事業を政府関係の援助を得て推進し、アジア諸地域の参考になるようにしたいという夢であることをご理解いただきたいと思います。~拍手~ <懇話会・新春例会>」 
  18. ^ a b 愛知県議会事務局 1986, p. 1102.
  19. ^ 愛知県議会事務局 1986, p. 1138.
  20. ^ a b 愛知県議会事務局 1986, p. 1158.
  21. ^ 中日新聞 & 中部総合開発推進委員会 1972, p. 168.
  22. ^ 「出番デス中部経済―“東京中心世界”はもうご免」『週刊ダイヤモンド』10月19日号、ダイヤモンド社、東京、1970年、24-29頁。 
  23. ^ 住宅金融公庫総務部広報課(編)「《支所めぐり》名古屋支所 4.中部圏開発計画について」『住宅金融月報』7月、住宅金融普及協会、1970年7月20日、18-22頁。 
  24. ^ 「中部圏知事・市長座談会、犬山市名鉄犬山ホテルで開催」『中日新聞』1969年11月6日、朝刊。
  25. ^ 『電通広告年鑑』 昭和46年版、株式会社電通、東京、1971年6月、195頁。NDLJP:11915557。「概況 1970年は日本万国博の年であり、日本中が万国博に明け、万国博に暮れた感が強かった。屋外広告界にも当然その影響が顕著に表れた。万博への来場者を対象とした屋外広告物が大阪を中心に多数製作された。とくに人の目を引いたのは、大阪豊中市のリコー広告塔,大阪空港前の野点看板,新御堂筋沿線の広告塔などである。また従来自社ビル以外には看板を出していないデパートが外人客向けの看板を設置した例などが注目された。」 
  26. ^ 「地方自治体館を出展/万国博地方公共団体出展準備委員会(会長・桑原愛知県知事)でまとまる」『読売新聞』1968年9月17日、東京14版朝刊、15面。
  27. ^ 「一問一答 答える人 愛知県知事(全国知事会会長) 桑原幹根 訊く人 高島耕二(新日本経済社社長)」『新日本経済』8月号 中部圏特集号 <開発・経済・産業・財界・会社>、新日本経済社、東京、1970年8月1日、24-27頁。 
  28. ^ 中部圏開発整備地方協議会事務局 愛知県企画部長 中村隆「特集・中部圏のかなめ“大愛知” 中部圏の開発整備の現状と将来」『政経人』六月号、政経社、東京、1974年6月1日、156-161頁。 
  29. ^ 「一問一答 答える人 愛知県知事(全国知事会会長) 桑原幹根 訊く人 高島耕二(新日本経済社社長)」『新日本経済』8月号 中部圏特集号 <開発・経済・産業・財界・会社>、新日本経済社、東京、1970年8月1日、24-27頁。 
  30. ^ 三上 & 中川 1970, p. 203.
  31. ^ 愛知県教育センター 編『愛知県教育史年表』 昭和41年~昭和60年、第一法規出版東海支社、名古屋、1987年、99-117頁。NDLJP:12116587。「『7.11 日本万国博覧会の見学基準について通知/実施時期 昭和45年4月13日~7月24日,土・日・祝日を除く/実施学年 小学校(小学部)は5年以上.中学校(中学部)・高等学校(高等部)は全学年/見学は日帰りを原則』『4.21~24 日本万国博覧会指導のための講習会開催/小・中学校(尾張部) 4月21日 西枇杷島町立西枇杷島中 小/中学校(三河部) 4月22日 岡崎市立六名小/県立学校 4月24日 県庁西庁舎1階講堂/県下の見学校数 小学校163校 小学校163校 中学校109校 高校34校 計306校』」 
  32. ^ 愛知県観光協会 編『三十年のあゆみ』愛知県観光協会、名古屋、1986年、57頁。NDLJP:11914578 
  33. ^ 丸之内リサーチセンター 編『日本万国博事典』政府刊行物サービス・センター、東京、1968年9月1日、685頁。NDLJP:11940470。「〇名古屋商工会議所 41年1月、大阪、京都、神戸の3商工会議所とともに万国博対策特別員会を設置し、その活動を行なうとともに、同年4月以後低調な名古屋地区経済界における万国博関心を高める活動を行い、同年10月には同商工会議所が中心となって『万国博中部協力会』を発足させた。」 
  34. ^ 丸之内リサーチセンター 編『日本万国博事典』政府刊行物サービス・センター、東京、1968年9月1日、689頁。NDLJP:11940470。「〇日本万国博中部協力会 41年10月、名古屋商工会議所が中心となり、万国博に対するムードアップ、中部地域諸企業一体となつての出展参加、観客動員対策などを目的に『日本万国博中部協力会』を発足させた。同会は名古屋商工会議所、中部経済連合会、その他名古屋経済団体が参加し、次第に中部地方へと規模を広め、同地用の特色をもつた出展参加を意図したものであつた。初期には、『陶器館』あるいは『中部産業館』といつた出展構想もあり、地域的な万国博組織として注目されたが、その後同地方における低調な万国博関心度を克服するまでに至らず、次第に同協力会は有名無実の存在と化している。これは、同地のややもすると排他的な気風と激しい競争が、業界の協調を得るまでに至らなかつたためとみられている。」 
  35. ^ a b c d 「地域経済展望 転機にたつ“青年都市”名古屋の苦悩―「地域開発博」は浮上策の切り札となるか―」『産業と経済』第26巻第5号、株式会社産業と経済、東京、1972年5月1日、58-61頁。 
  36. ^ a b 名古屋大学経済学部助教授 木下宗七「オリンピック招致と名古屋の国際化」『月刊貿易と産業』55年10月号、通産省通商政策局総務課内通商政策研究会、東京、1980年10月1日、101-103頁。 
  37. ^ 住宅金融公庫広報室(編)「住宅ジャーナル№93 オリンピックに見る都市改造の思想 ―(東京オリンピック)(万博)(札幌オリンピック)(・・・・・)という式の展開―」『住宅金融月報』2月、住宅金融普及協会、東京、1972年2月10日、54-57頁。 
  38. ^ 青木伸樹 編『なごやべん 杉戸清さんのおしゃべり』日進堂書店、1970年7月1日、281頁。NDLJP:11895963。「松村 それより一番おもしろいことは、万博がいま開かれていますので、ついでにひっかけて申しますがねえ。松坂屋が大きくなってきたのは名古屋における博覧会なんですよ。明治四十三年の第十回関西府県連合共進会、昭和三年の御大典奉祝名古屋博覧会、そして、昭和十二年の名古屋汎太平洋平和博覧会というよう、名古屋は博覧会ぶとりしていったのですよ。松坂屋もいっしょに。 芥子川 昭和五十年には、アジア博とかを開くような計画があると、これまた大きくなるわけですねえ。」 
  39. ^ a b 木下宗七(名古屋大学経済学部助教授)「オリンピック招致と名古屋の国際化より図表『戦後に開催された国家的事業』」『月刊貿易と産業』55年10月号、通産省通商政策局総務課内通商政策研究会、東京、1980年10月1日、101-103頁。 
  40. ^ 大阪市政策企画室企画部総合計画担当(編)「都市問題研究」通巻231号、大阪市政策企画室企画部、1970年。「自然、開催地大阪への関心もいっそう高まってくることであろう。さらに期間中100万人といわれる外人観客によって、大阪が直接世界に紹介されることとなり、万国博を機会に、大阪の国際的知名度は大いに高まり、さらに期間中には各種の国際会議も開催されるため、大阪の国際的地位は、今後、著しい向上を示すことが期待されるのである。」 
  41. ^ 「万国博 6000万人へ/押し寄せる人の波 歴史を変える」『サンケイ新聞』1970年9月6日、東京5版、1面。
  42. ^ 糸井重里「《納涼雑談会》熱海のローマ風呂で関西思想を考える」『糸井重里の萬流コピー塾』 基本篇、文芸春秋社、1987年2月15日、178-191頁。ISBN 4-16-341220-4 
  43. ^ a b 「日本万国博記録づくし 跡地利用、委員会つくり検討 首相語る」『読売新聞』1970年9月14日、東京4版朝刊、2面。
  44. ^ 「生まれ変わった大大阪」『EXPO70 人類の祭典-その感激と記録』三洋電機株式会社、1971年、161頁。 NCID BN06526617 
  45. ^ 「地方要覧 愛知県《もたつく中部圏》」『朝日年鑑』 1973年版、朝日新聞社、1973年2月15日、456-457頁。NDLJP:12405299 
  46. ^ a b 東海銀行調査部長 神谷満雄 編「第9章 中部の発展方向と大型プロジェクト/2 未来を託する多くの大型プロジェクト」『中部の経済―京浜・阪神とくらべる―』東洋経済新報社、東京、1971年10月15日、307-309頁。NDLJP:12002376 
  47. ^ 愛知県議会事務局 1986, p. 1161.
  48. ^ 「わたしたちの夢 70年代 伸びゆく近鉄 座談会」『近畿日本鉄道社内誌 ひかり』No.5(最近10年のあゆみ 創業60周年記念)、近畿日本鉄道広報部、1970年12月1日、20頁。「司会 ところで、万国博の次の国家的規模の事業は、昭和五十二年ごろに名古屋で、という話ですが、水谷さん、そちらの空気はどうですか。 水谷 アジア博ですが、もちろん大歓迎で、大きな期待をよせています。伊勢湾港の架橋だとか、各地にモニュメントが考えられているようですが、中央会場は、やはり名古屋の近くになるでしょうね。 友田 うちの鉄道から、一回の乗り換えで行けるところで開いてほしいですね。会場にも何らかの形で、事業参加したいものです。 植田 もう一回、ロープウェイをやりますか。 小川 それは七六年のフィラデルフィアの万博へ、もっていきたい(笑い) 福島 近鉄としてのアジア博関連事業も、いろいろ出てくるでしょうけれど、古市さんは、また忙がしくなりそうですね(笑い)。 古市 これはもう、近鉄グループの総力をあげて取り組んで、ぜひ成功させなければ。」 
  49. ^ 名古屋市会事務局 編『名古屋市会史』 第16巻、1988年3月25日、1276-1278頁。NDLJP:9673544。「『アジア博は桑原知事の話では、中部圏開発整備の大型プロジェクトを出展物にした地域開発博覧会のようであるが、まだ構想の内容が不明確な今の段階で市の考え方を出すのは早い。しかし、オリンピック、万博に次いで名古屋で何かをしたいというのは大方の意見であり市を挙げて考えていきたい。』『アジア博はまだ試案の域を出ずさらに検討を重ねる必要がある。いずれにしても国家的事業であり各方面の意見を聞いて中部地区で決めなければならない。』『アジア博の構想自体が今後の問題なのでいま言う訳には行かないが、いずれにしてもポスト万博の観点に立ってこの地域の発展を第一に考えたい』」 
  50. ^ a b 酒井 1972, p. 10.
  51. ^ 「アジア開発博開催決める 中部圏開発協」『読売新聞』1970年11月13日、4版夕刊、10面。「【名古屋】第九回中部圏開発整備地方協議会(桑原幹根会長)は十二日、名古屋市中区丸ノ内の愛知県産業貿易館に桑原愛知県知事はじめ岐阜、三重、静岡、長野、富山、石川、福井、滋賀九県知事など二十七委員が出席して開き、桑原知事が提唱した「アジア地域開発博覧会」(仮称)について協議した。この結果、全員一致で、国家的事業として「アジア地域開発博覧会」開催を決めた。」
  52. ^ 「“アジア博”開催決める 中部圏開発協 近く準備委を結成」『朝日新聞』1970年11月13日、東京12版朝刊、3面。「【名古屋】第九回中部圏開発整備地方協議会(会長・桑原幹根愛知県知事)は十二日午後二時から、名古屋市中区の愛知県産業貿易館で関係九県一市(富山、石川、福井、滋賀、長野、静岡、愛知、岐阜、三重県、名古屋市)の知事らが出席して開かれ、万国博後の国家的事業として「アジア地域開発博覧会」(仮称)を開催することを決め、そのための準備委員会を近く結成することにした。これはさきに万国博閉会式後の記者会見で佐藤首相が「次は中京地区で」と発言したことに地元がこたえたもの。名称、開催年次なども含めて学識経験者らを集めた準備委員会で検討する。また全国の各府県が誘致合戦をしている国連大学を「中部圏へ誘致する」ことを決めた。」
  53. ^ 「特集 中部 特集その1 日本の「ヘソ」中部圏を語る」『財界』4月15日号、財界研究所、東京、1971年4月15日、96頁。「三鬼 中部圏は過密に悩む首都圏や近畿圏と違って開発余力が豊富ですからね。ところで六選のスローガンの一つにうたわれたわけですか。 桑原 いや愛知県知事選ですから結びにふれたぐらいです。」 
  54. ^ 東海自治体問題研究所愛知県政分析研究会 編『愛知県政の実像 -保守県政の構造と実態-』自治体研究社、東京、1974年12月26日、28頁。NDLJP:9768710。「知事は、昭和四六年保革対決の知事選の公約で、自然尊重・公害除去を第一の柱にすえ、中部圏・アジア博を第九の柱にひき下げて、『わが国で最も豊かで快適な大愛知の実現』(桑原幹根著『世紀を生きる』四六三ページ)を提唱する。高度成長の推進者=公害・自然破壊の促進者=大愛知主義の先導者が、自然尊重・公害除去を第一に、県民のくらし中心の五項目を公約する。高度成長政策への反省の表明もなく、水資源の開発や中部圏の発展を口にする。」 
  55. ^ 「《解説》実績勝ちの桑原氏「愛知県知事選」追上げみせた革新共闘」『朝日新聞』1971年2月8日、東京12版朝刊、2面。「現職、そして自民党系が強い―愛知県知事選も、辛勝ながらことし一月中にすんだ全国七つの知事選と同じ結果に終わった。当選した桑原氏は全国知事会長で、中央にも「顔がきく」大物知事。中部圏づくりの中心となり、こんどはアジア博(仮称)を中部圏を舞台に開催しようとしている実力者でもある。五期、二十年間にこれといった失政がなく、名古屋を中心とした産業の発展を背景に全国でも指折りの富裕県として、愛知用水事業など大きな行政実績もあげてきた。こうした事情から、これまで通りの自民党、名古屋財界の支持に加え、今回は民社党、同盟系労組の推薦も得て、戦いの前から有利な態勢を確立した。これに対し革新側は、名大名誉教授の新村猛氏を立て同県知事選初の社共共闘を成立させて、これを軸に総評系労組、学者・文化人、学生を結集。大量のシンボルマーク、文書の配布、蜷川京都府知事ら有名人の応援など、保守側にない戦術を展開してよく追上げた。しかし、候補者の決定が昨年十二月中旬と立ち遅れたうえ、民社党が桑原氏支持に回り、公明党は中立・自由投票の態度をとって革新の統一戦線が成らず、厚い保守層をくずせなかった。それでも名古屋市内や他の都市でも、多選批判を含めたかなりの革新浮動票を集め、革新共闘にかなりの成果を収めた。」
  56. ^ 『丸山薫全集』(1版)東京、1977年3月31日、521頁。 
  57. ^ 東海経済懇話会 編『東海経済の推進力 懇話会の活動概要』 総括編、東海産業経済調査所、名古屋、1974年11月25日、136-137頁。NDLJP:11916171 
  58. ^ 「県政のうごき 《中部》―“アジア博”で副知事会議」『地方行政』、時事通信社、東京、1971年4月9日、14頁。「【愛知県】『アジア地域開発博覧会』(仮称)の開催準備を進めるための中部圏副知事会議が三月三十日、名古屋市東区の愛知県文化会館で開かれた。会議には、富山、石川、福井、長野、岐阜、三重、静岡、滋賀、愛知の九県副知事(富山、石川両県は副知事欠員のための代理)と今城名古屋市助役らが出席、アジア博開催の意義などについて話し合った。中部圏開発整備地方協議会(会長・桑原愛知県知事)が“ポスト万国博の国家的事業”というねらいで、昨年十一月十二日、アジア博の開催を決定して以来、担当部課長会議で事務的な協議は行われていたが、関係各県のトップクラスがこの構想を具体的に取り上げるのは初めてとあって、かなり積極的な意見交換があった。しかし、提唱されてまだ間もない構想のため、中部圏づくりを中心とするか、国際的行事を中心とするのか、博覧会としての概念がはっきりしない面があるので、まず中部圏事務局(愛知県)で各県の考えをまとめ、できるだけ早く"構想原案"を作成することを申し合わせた。」 
  59. ^ 酒井 1972, pp. 10–11.
  60. ^ 「自動車郷土史<1>愛知県 “日本のデトロイト”をめざして」『自動車販売』12月号、社団法人日本自動車販売協会連合会、東京、1970年11月30日、58-59頁。 
  61. ^ a b c d 「地域開発博 55年メドに開く 中部圏知事会議で一致 “改造論より先行” 開発推進へ強い自負」『中日新聞』1972年9月19日、朝刊、1面。
  62. ^ 中部開発センター会長 土川元夫「特集 列島改造と地域構想-中部- 集中型から分散均衡型を標榜」『都市開発』1月号、都市開発研究会、東京、1972年12月15日、38-39頁。 
  63. ^ 「ローカルセクション 東海道 「中部開発博覧会」」『政界往来』11月号、政界往来社、東京、1972年、162-163頁。 
  64. ^ 「日本の記録-地方 【愛知県】」『時事年鑑』 昭和49年、時事通信社、東京、1978年10月10日、335頁。NDLJP:12405250 
  65. ^ 富山県議会事務局 編『富山県議会四カ年の回顧』 昭和46年5月-昭和50年4月、富山県議会、富山、1977年3月31日、81頁。NDLJP:9769944 
  66. ^ a b 「日本の首相<22> もう一つの退陣 切れる太いパイプ」『朝日新聞』1975年1月24日、東京版13版朝刊、22面。
  67. ^ 中日新聞社開発室 1974, p. 99.
  68. ^ 堺屋 2018, p. 198, 「(五)沖縄国際海洋博覧会の賛否」.
  69. ^ 近藤 1974, pp. 6–7.
  70. ^ 近藤 1974, p. 6.
  71. ^ 「桑原愛知県知事退任へ 七選目指さず」『読売新聞』1979年8月29日、夕刊東京4版、3面。
  72. ^ a b c 今枝英多郎「「愛知万博」の予定地「利権」」『財界展望』95'12月号、財界展望新社、東京、1995年、182-185頁。「昭和四十四年、愛知県知事であった桑原氏は「地域開発博」を提唱。地域開発博はその後「日本21世紀博覧会」の仮称も用いられる。国連人間環境会議などの国際会議と各種の地域プロジェクトの展示を合わせたものということで、昭和四十八年十一月の第二三回中部国際知事会議で了承される。開催目標は昭和五十五年度とし、昭和四十九年度には六三○万円の調査費も計上される。会場計画は万博の一点集中型ではなく分散型としているが、「都市周辺地域に二十一世紀の都市生活はどうあるべきかを中心に考えたモデル的都市を創造する」としていた。ところが桑原知事は、昭和四十九年八月に知事引退を表明、同年九月の県議会で地域開発博を事実上中止する見解を明らかにする。理由は日本がエコノミックアニマルしてアジア諸国から批判されていること、日本赤軍が海外でハイジャック事件を起こすなど、アジア情勢が変化したためとしている。こうしたことが地域開発博中止の真の理由になるのか疑問ではあるが、中止見解を明らかにしたのは「知事引退にあたり、後任者にやっかいな間題を残しておかないよう後始末をつけておくための配慮」と地元紙は報道している。桑原氏自身、引退にあたり「地域開発博が一番の心残り」とした。一方、在任中最も思い出に残った仕事の一つとして、グリーンロード沿いにある「愛知青少年公園」を挙げている。」 
  73. ^ 中日新聞本社開発室 1975, p. 177.
  74. ^ 「-特別座談会-『中部経済圏』若手経営者が語る中部圏の企業家精神」『財界』10月15日号、財界研究所、東京、1975年、94頁。「例えば、首都圏整備法とか近畿圏、中部圏もあったが、大テーマを東西に持っていかれてしまった。地域開発博なんていう計画もあったが、陽の目をみなかった。」 
  75. ^ 愛知県選挙管理委員会 編『愛知の選挙二十年』 2 地方選挙篇、愛知県選挙管理委員会、名古屋、1989年、177頁。NDLJP:11933106 
  76. ^ 「中部財界だより/線香花火?名古屋五輪誘致」『財界展望』11月号、財界展望新社、東京、1972年、122頁。「といっても名古屋五輪はモスクワの次の次のこと。八四年の開催地も決まっていないし、それでなくても今札幌五輪再誘致でモメている最中。とくに中部財界には〝前科〟がある。桑原前愛知県知事が提唱した「アジア地域開発博覧会」に財界が乗ったことがある。ところがこの構想、いまだに実現の可能性はなく、まったく忘れられた存在、はたして、この〝名古屋五輪〟構想が実現に向かって進展するか、それとも線香花火のように消えていく運命なのか、じっくり見守りたいものである。」 
  77. ^ 近江文化叢書企画委員会 編『シンポジウム 湖と文化』白川書院、京都〈近江文化叢書 1〉、1978年4月15日、27頁。NDLJP:10261250。「で、いまはもうつぶれしまったんですが、私が住んでいます名古屋市の周辺で中部圏の開発ということで博覧会が計画されたことがありましてね。アジア開発博でしたか、だんだんしりすぼみになって、現在、立ち消えになった感じがありますけども」 
  78. ^ 「それ以前にも一九八一年のオリンピック招致というチャンスがあったが、これに失敗したのが相当のショックとなり、若干の後遺症を余儀なくされたと言われる。その影響は現在でもまだ多少残っており、例えば来名する客はタクシーの運転手にもオリンピックの話だけはもち出さないように忠告を受けることが多い。」『月刊官界』平成4年12月号(株式会社行研)p290 人事院任用局審議官栗田久喜「『偉大なる田舎』雑感」
  79. ^ 「国家投資で地域開発という虫のいいねらい 五輪誘致にかける名古屋財界 道は険しく思惑はずれの懸念も」『経済展望』9月15日号、経済展望社、東京、1978年9月15日。「東京ではオリンピックが開かれ、大阪では万国博が行われたことから、中部圏では「次は中部地方で何かを」という要望が、ことあるごとに打ち上げられてきた。その何かに、かつて「地域開発博」とか「アジア博」とか呼ばれた構想があったが立ち消えとなった。これに代わる「何か」として登場したのが、オリンピック誘致である。何しろ東京オリンピックの場合を見てもわかるように、オリンピック開催のため相当な国家投資が行われた。その国家投資が「中部地方に来れば」の期待感が、推進している人の中にあることは間違いないところだ。」 
  80. ^ 「88年五輪 名古屋市に誘致意向/愛知県知事 首相に協力要請」『毎日新聞』1977年8月25日、東京版夕刊 4版、9面。「仲谷・愛知県知事は一九八八年のオリンピックを名古屋市に誘致する意向を固め、すでに上京の折福田首相に協力を要請するとともに、名古屋市との連絡会で本山名古屋市長にもこの意向を伝えた。オリンピックの誘致資格は都市にあり、名古屋市は具体的な動きをしていないが、名古屋財界では六四年の東京オリンピック、七〇年の大阪万国博に続く国家的行事の名古屋誘致を歓迎するふんいきが強く、名古屋市、愛知県の取組みが注目される。オリンピックは、三年後の一九八〇年にモスクワで開催することがすでに決定、次の八四年にはアメリカのニューヨーク、ロサンゼルス、ニューオリンズの各都市が名乗りを上げている。この八四年オリンピックの開催地は、この秋のIOC(国際オリンピック委員会)総会で決定するが、そのあとは次の開催地問題が日程にのぼるため、仲谷知事はいち早く誘致の準備を始めたとみられる。国際的行事の名古屋誘致の動きはこれまでもあり、桑原前知事が大阪万国博後のアジア博覧会開催を働きかけたことがある。誘致資格は都市にあるため、当面、名古屋市の動きが焦点になるが、仲谷知事としては中部圏全体に活力を与えるためオリンピックをぜひ誘致したい意向といわれるが、まだ〝仲谷構想〟段階にある。」
  81. ^ 宮城敏郎「沖縄観光産業史に関する研究/沖縄国際海洋博覧会開催を境とする前後10年の沖縄観光を中心として」『名桜大学総合研究』第25巻、名桜大学総合研究所、沖縄名護、2016年、33-42頁。 
  82. ^ 名古屋市会事務局 編「第八章 昭和四十七年中の議会活動/四 当初予算に関係のない案件議決・当初予算関係議案に対し代表質疑(三月六日)」『名古屋市会史』 第17巻、名古屋市会事務局、1991年、463頁。国立国会図書館書誌ID:000002121468。「杉戸市長 国の援助を受ける大きな行事としては中部圏開発事業の一環としての地域開発博を名古屋市長も加わった九県知事会議で決定し細部を検討中、また会議所で二十一世紀博をとの話もあり何とかこの種の行事をやりたい。」 
  83. ^ a b 中日新聞編集局情報開発センター 1973, p. 56.
  84. ^ 中部地方建設局営繕部長 吉原操「名古屋雑感」『産業新潮』48年3月号、産業新潮社、東京、1973年、176-177頁。「一方市街地の方はどうかというとこれは東京·大阪にくらべると相当に差がありそのスカイラインは平坦でそのまま周囲の山すそまで続いている。目立つものはTV塔と最近になってようやくスカイラインをよじりはじめた僅かの超高層ビルである。時折東京に出張すると、ついこの間まで住んでいた処なのにやたらと建物の高さが目立って感じられる。これは大阪でも同じであり林立する建物群の間を高速道路がはい廻り、手でこね廻した様な強引な市街地改造も各所に見られる。名古屋にはまだこの様な現象は起っていない。東京はオリンピック、大阪は万国博を機会に市街地改造を行ったが、名古屋でも中部圏としてアジア博などの国家的プロジェクトが計画されているが、今のところ次回は沖繩海洋博がとり上げられており、この地区でのそのような催しは何時のことになるだろうか。」 
  85. ^ 「中京大都市圏の都市開発と「地域開発博」」『都市開発』5月号、都市開発研究会、東京、1972年5月1日、54-55頁。 
  86. ^ 「《議長訪問》愛知県議会議長 高橋則行氏」『中部経済界』平成10年7月号、経済批判社、名古屋、24頁。「桑原知事時代の印象が強く、「開発に長けた知事が、アジア国際博覧会を提唱された。確かに経済的には大国より進んでいるが、開発一本やりの行政は県民の利益につながらない。教育、福祉に重点を置くべきだと、反乱を起こし、結局、日の目を見なかった。いろいろあるが、桑原知事のえらかったのは、一杯飲み、冗談を言いながらきちっと説得する雑談の名手だった」と懐かしむ。」 
  87. ^ 丸之内リサーチセンター 編「[23]日本万国博のあゆみ」『日本万国博事典』政府刊行物サービスセンター、東京、1968年9月1日、785頁。NDLJP:11940470。「当時、選挙に敗れて野にあった中馬馨大阪市長や、大阪商工会議所会頭を長く勤めた杉道助氏(故人)らは、ひそかに万国博開催計画を研究していたが、39年1月4日、大阪商工会議所新年祝賀会の席で、杉氏は左藤義詮大阪府知事に、万国博の大阪開催を提案した。」 
  88. ^ a b 浜口隆一、山口広「10 大阪万国博への期待―さまざまな参加の仕方」『万国博物語』鹿島研究所出版会、東京、1966年6月20日、253-277頁。NDLJP:2509809 
  89. ^ 堺屋 2018, p. 94.
  90. ^ 三上 & 中川 1970, pp. 58–71.
  91. ^ 丸之内リサーチセンター 編『日本万国博事典』政府刊行物サービスセンター、東京、1968年9月1日、673頁。NDLJP:11940470 
  92. ^ 「万国博を成功させよう」『日本万国博ニュース』NO.9、財団法人日本万国博覧会協会、大阪、1967年1月、3頁。「―最後に大臣から、政府の支援体制について・・・・・。― 大臣 支援じゃなくて、国がやるんですよ。実際、民間の事業でもなんでもなくて、政府の事業なんですから。できるだけの努力をすべきだと思っています。佐藤総理もそのつもりですよ。」 
  93. ^ 毎日新聞』1970年1月16日、夕刊。
  94. ^ 『万国博読本』 1970年版、東洋経済新報社、東京〈週刊東洋経済臨時増刊〉、1970年2月4日、177頁。 
  95. ^ 「第2会場は近畿全域 大阪大学学長 赤堀四郎」『日本万国博ニュース』NO.4.5、財団法人日本万国博覧会協会、大阪、1966年9月25日、3頁。 
  96. ^ 「万国博特集*その楽しみ方のすべて*オールガイド 関西の見物をかねた万国博旅行プラン集」『旅』4月号 特別編集増大号、新潮社、東京、1970年、138-139頁。 
  97. ^ 「「こんにちは」がハヤるよ」『週刊読売』3月24日号、読売新聞東京本社、東京、1967年、46頁。「「サヨナラ」についで「こんにちは」という日本語を世界にひろめようとしているのが、三年後に大阪で開かれる万国博覧会のテーマ·ソング「世界の国からこんにちは」(島田陽子作詞、中村八大作曲)。三番までの歌詞のなかには、なんと三十五回も"こんにちは"が出てくるが、この曲がまたレコード各社の競作。うたっているのは三波春夫坂本九西郷輝彦叶修二ボニー·ジャックス。それに吉永小百合弘田三枝子らの女性陣も加わっている。さて、三年間にだれの"こんにちは"がいちばんアピールするかな?」 
  98. ^ 「アメ横町で1970年の握手/盛況上野の歳末売り」『サンケイ新聞』1969年12月29日、東京3版、19面 城北。「【台東】来年はいよいよ万国博とあって、風を切って聞こえる「こんにちは北の国から南の国で1970〝円〟のエゾホタテ」と洒落た歌声、いやよび声には往来客も大笑いだった。」
  99. ^ 「地方ジャーナル (3月7日)"万国博ソング"発表さる」『財界展望』4月号、財界展望新社、東京、1967年、77頁。「"人類の祭典"日本万国博まであと一〇九〇余日-四月一日になると、いよいよ正式申請も始まる。万国博のテーマソング"世界の国からこんにちは"の発表会もおわったとか。とかくこれから忙しくなる産業界の表情である。〔毎日新聞(大阪)〕=万国博のテーマソング“世界の国からこんにちは"の発表会(毎日新聞社主催、日本万国博協会後援、松下電器協賛)が全国のトップを切って十二日昼夜二回、福岡市民会館で開かれた。この歌は毎日新聞社が万国博協会の後援で全国から歌詞を募集、一万三千点の中から選ばれた大阪府豊中市服部本町、島田陽子さん(37) の歌詞に、中村八大さんが曲をつけたもの。日本レコード協会加盟八社がそれぞれ趣向をこらし、よりぬきの歌手に吹き込ませたというレコード界異例の話題のうちに三月一日から発売中で、おぼえやすい軽快な曲だと早くも人気を呼んでいる。同日の発表会でのテーマソング発表者は、吹き込んだ弘田三枝子(日本コロムビアより発売)、中沢寿士とNBSオーケストラの伴奏。グリーンのカクテルドレス姿の弘田さんは笑顔いっぱいに、呼びかけるように「こんにちは、こんにちは···」と明るく軽やかに歌ってみせた。満場の聴衆も思い思いに、手や足で小さく拍子をとってききいっていた。」 
  100. ^ a b 「おしゃべりジャーナル わたしの歌は長くなる / 三波春夫 宮田輝」『週刊平凡』9月12日号、平凡出版、東京、1968年、28頁。 
  101. ^ 中瀬寿一「第三章 千里のドラマの開幕」『万国博と情報ファシズム』校倉書房、1970年4月10日、88頁。NDLJP:11935465 
  102. ^ a b c 平野 2016, pp. 108–109.
  103. ^ 「ポストEXPO 次のお祭りをねらう名古屋」『サンデー毎日』10月4日号、毎日新聞社、東京、1970年、16-19頁。 
  104. ^ 「沖縄海洋博のねらいは沖縄の経済発展 ぜひ成功させたい世界初の海洋特別博 沖縄海洋博覧会政府代表 高瀬侍郎氏」『中部財界』11月15日号、中部財界社、名古屋、1975年、14-18頁。 
  105. ^ 相川俊英「「愛知万博」懲りないメンメン 五輪がダメなら万博があるギャア。いまだバブルの夢追う地方行政と、そこに群がるハイエナたち」『新潮45』9月号、新潮社、東京、1998年、92-102頁。 
  106. ^ a b 堺屋 2018, p. 88.
  107. ^ 「用語解説/万国博覧会」『経済月報』第151号、十六銀行企画調査部、1965年12月1日、20頁。 
  108. ^ 平野 2016, p. 163.
  109. ^ 『日本万国博覧会公式記録資料集』 別冊 B 25 常任理事会会議録、財団法人日本万国博覧会協会、東京、222頁。NDLJP:12612593。「これに関連してちょっと余談でございますが、もう一度名古屋で博覧会をやりたい、この前総理が名古屋で、東京のオリンピックと大阪の万国博の次は中部でというような、何か最近名古屋の新聞には非常に盛んにアジア開発博というのを書いているのですが、これは同一国でやる場合にはいまの条約のままですと、第1種博ならば15年、第2種博ならば10年、今後10年ぐらいの間に新しい条約が変わりますと、第2種であっても20年ということになります。名古屋でどういうふうに考えておられるのか、私ちょっと疑問なような気がいたします。」 
  110. ^ Le Bureau International des Expositions (BIE) est l’organisation intergouvernementale qui encadre et réglemente les Expositions Universelles depuis 1931.”. Le Bureau International des Expositions (BIE). 2024年11月13日閲覧。
  111. ^ 愛知万博、格付けに諸説あり 登録博か認定博か」『産経新聞』2019年4月19日。2024年1月15日閲覧。
  112. ^ a b 堺屋 2018, pp. 207–208.
  113. ^ 「表2 日本人入場者の地域別構成」『日本万国博覧会公式記録資料集』 別冊 B 27、財団法人日本万国博覧会協会、東京、1971年、103頁。NDLJP:12612586 
  114. ^ 「特集 中部経済圏 ヒンターランドの再活用」『野田経済』5月17日号、野田経済研究所、東京、1978年、55-56頁。「つい数年前までは、名古屋東部方面の山岳地帯を開発して『万博』ならぬ『世界博計画』が練られていたが、今やオリンピック構想に置き換えられてきた。どちらの経済メリットが高いかは不明だが、世界博となると参加国或いは出展国が、世界不況のために限定される懸念がある。しかしオリンピックとなると、自国の計画で設備なり環境などが建設できる。ここに、他人まかせになりやすい世界博より妙味があるというのが当事者の見解である。」 
  115. ^ 名古屋都市計画史編集実行委員会 編『名古屋都市計画史』 II(昭和45~平成12年度)下巻、名古屋都市計画史編集実行委員会・名古屋市・公益財団法人名古屋まちづくり公社名古屋都市センター、名古屋、2017年、206-311頁。NDLJP:11665651 

参考文献

関連項目

  • 日本海博覧会(地方博覧会) - アジア地域開発博覧会構想とほぼ同時期(1973年)に、公害、環境破壊といった太平洋側(含愛知県)の愚を繰り返さぬようにし北陸の自然環境を守るをテーマに掲げて北国新聞社、石川・富山・福井の北陸3県が主催して開かれた博覧会
  • 名古屋飛ばし - 集客イベントの開催地が東京・大阪・福岡3都市のみで名古屋圏が含まれないことを表現した言葉



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