八上城跡とは? わかりやすく解説

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八上城跡

名称: 八上城跡
ふりがな やかみじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 篠山市
管理団体
指定年月日 2005.03.02(平成17.03.02)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 八上城跡は、兵庫県中央東端部位置し史跡篠山城跡南東3.5km丘陵占地する奥丹波地方最大中世山城跡である。丹波地方代表する有力国人波多野氏本拠地で、織田信長旗下明智光秀による丹波攻略の際に、最大攻防戦が行われた城郭として著名である。
 八上城跡北麓の八上地区は、東西山陰道が通る街道筋で、中世における丹波国多紀郡中心地であった石見国土豪であった波多野清秀は、15世紀後半代に応仁の乱戦功によって多紀郡守護代に任ぜられ、八上地区から南側谷部入り込んだ奥谷中央部谷に奥谷城を築城して本拠地とした。その後波多野氏管領細川氏の有力内衆として勢力拡張し中央政権内での地歩を固めた天文7年(1538)には三好政長とともに守護代内藤氏攻略して奥丹波地方実効支配した。三好長慶松永久秀対立して一時八上城奪われたが、永禄9年(1566)に奪還した
 同11年織田信長上洛すると、波多野氏服従姿勢示したが後に毛利氏与し天正4年(1576)には明智光秀裏切り敗走させた。八上城は同6年第二次丹波攻略光秀軍に包囲され1年にわたる籠城戦の末に落城して波多野氏滅亡したその後多紀郡光秀前田玄以等が支配し慶長7年1602)には前田茂勝徳川家康から八上藩5万石に封じられた。同13年に茂勝は改易となり、家康庶子松平康重が入封した。康重は同14年幕命による天下普請新城築城し、同年末に篠山城入城し八上城廃城となった
 篠山市教育委員会平成13年度14年度に八上城跡の縄張り調査文献地名地割調査実施した。八上城跡は、篠山盆地中央南部、篠山川左岸標高約460mの高城山標高約340mの法光寺山を中心に築城された。標高差は240mから120mを測り、東西3km南北1.4km広大な城域有する本城築かれ高城山は、丹波富士の別名を持つ秀麗な山容を誇る。
 高城山では東西1.4km南北約1.3km範囲10箇所ほどの郭群が展開する高城山中心とする八上城は、史料上で大永6年(1526)に「矢上城」として初出する(『足利世記』『細川両家記』)。北東部尾根筋防御施設配置粗放であるが、主郭部分は平場土塁空堀集中配置され水の手を守る南西部防備が最も固いまた、高城山から南西側に下る尾根先端部には奥谷城(丸)跡が位置する尾根大堀切で切断して東西南北200m範囲に郭と竪堀配置している。16世紀高城山本城として整備されると、登城口を守る出城として改変整備された。法光寺城跡東西南北1.4km範囲に6箇所の郭群が展開する史料上で永禄2年(1559)に「八上法光寺山」として初出する(波多野家文書)。三好松永勢による八上城攻め先んじて防備強化のための出城として築城されたと推定される
 八上城跡は、戦国時代多紀郡中心に丹波地方一帯支配し管領細川氏の有力内衆として活躍した波多野氏本拠地山城跡であり、明智光秀による丹波攻略主戦場としても著名である。よって史跡指定し保護図ろうとするものである
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