『銀の匙』授業
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「生徒の心に生涯残り、生きる糧となる授業をしたい」との思いから、1950年、新制灘中学校で新入生を担当することになった時点から、「教科書を使わず、中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる」国語授業を開始する。単に作品を精読・熟読するだけでなく、作品中の出来事や主人公の心情の追体験にも重点を置き、毎回配布するガリ版刷りの手作りプリントには、頻繁に横道に逸れる仕掛けが施され、様々な方向への自発的な興味を促す工夫が凝らされていた。同年10月、東京教育大学(現:筑波大学)教授の山岸徳平が授業を見学し、「横道へ外れすぎではないか」との批判を受けたが、これこそがこの授業の最大の目的とする所であった。 授業の流れは、通読する→寄り道する→追体験する→徹底的に調べる→自分で考える(各章のタイトル付け→要約→自作の『銀の匙』づくり)の順を追う。具体的には『銀の匙 中勘助 橋本武案内』(小学館文庫、2012)に詳しい。 橋本がこうした授業を思い立ったきっかけは、小学校三年の時、真田幸村,塙団右衛門直之,三好清海入道などの講談本を使った国語の授業が楽しかったことと、東京高等師範学校時代に『大漢和辞典』の編集作業を手伝い、じっくり考える、きっちり調べるという漢文学者諸橋轍次の姿勢を目にしたことによる。また、終戦後の教科書黒塗りに直面したことも教科書を捨てるきっかけとなったという。 教材として『銀の匙』を選んだ理由としては、主人公が十代の少年であるので生徒たちが自分を重ね合わせて読みやすい、夏目漱石が激賞したほど日本語が美しい、明治期の日本を緻密に描いているため時代や風俗考証の対象にしやすい、新聞連載であったため各章が短く授業で取り扱いやすい、やや散文的に書かれているため寄り道しやすいといった点を挙げている。 この授業を受けた最初の生徒たちが、6年後の春には東京大学に15名合格(1956年・新制8回生)、更にその6年後には東京大学に39名・京都大学に52名合格(1962年・新制14回生)、また更に6年後には132名が東京大学に合格し、東京都立日比谷高等学校を抜いて東大合格者数全国一位となる(1968年・新制20回生)。その後も6年おきに120名(1974年)、131名(1980年)が東大に合格という快挙を成し遂げる。「1教科1教師の持ち上がり担当制で6年間の中高一貫教育を行う」灘校において、橋本の信念と実力と情熱により実現した授業であったが、これら進学実績の向上は、当初からの目的とされたものでは決してなく、あくまでその成果の一つに過ぎない。
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