『粛宗実録』(1728)と安龍福証言
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「于山島」の記事における「『粛宗実録』(1728)と安龍福証言」の解説
1728年に李氏朝鮮で編纂された書物『粛宗実録』には、1696年(粛宗22年)に朝鮮の安龍福が鬱陵島での日本人の漁労に抗議するために日本へ行った時のことが書かれている。帰国時に不法渡航の疑いで朝鮮政府に捕らえられ、備辺司で尋問された時の証言内容の中に(安龍福は、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。……」と言った。)とある。当時の日本では現在の竹島のことを松島と呼んでおり、これ以外にも「鬱陵子山島等を以て朝鮮の地界と定めた関白の書契がある」との記述があることから、韓国では現在の竹島(独島)が于山島であり朝鮮領だった確証だとしている。しかし、安龍福の証言に(……倭人は「我らは本来松島に住んでいる。偶然漁に出て来ただけ……」)とあるが、松島は人が住める環境ではない。つまり安龍福は日本人の呼ぶ松島を鬱陵島の近くにあるとされる于山島とし、話をでっち上げたのである。一連の安龍福の証言は他にも事実と合わない内容が多いことから、日本では、安龍福は当時朝鮮から渡航が禁止されている鬱稜島や日本への不法渡航や日本に訴訟を起こそうとした罪を免れるため事実を過大に脚色し創作したと考えられている。 (安龍福の虚言については安龍福を参照) この安龍福の松島の発言は後の朝鮮の書記に影響したと考えられ、これが明治時代の日本の記録にまで影響し、現在の竹島問題へと発展している。 原文 『粛宗実録』巻三〇 二十二年九月戊寅備辺司 推問安龍福等 龍福以為 渠本居東莱 為省母至蔚山 適逢僧雷憲等 備説頃年往来欝陵島事 且言本島海物之豊富 雷憲等心利之 遂同乗船 與寧海蒿工劉日夫等 倶発到本島 主山三峰高於三角 自南至北 為二日程 自東至西亦然 山多雑木 鷹鳥猫倭船亦来泊 船人皆恐 渠倡言欝島本我境 倭人何敢越境侵犯 汝等可共縛之 仍進船頭大喝 倭言吾等本住松島 偶因漁採出来 今当還往本所 松島即子山島 此亦我國地 汝敢住此耶 遂拾良翌暁沱舟入子山島 倭等方列釜煮魚膏 渠以杖撞破 大言叱之 倭等収聚載船 挙帆回去 渠仍乗船追趁 埣偶狂飆漂到玉隠岐 島主問入来之故 渠言頃年吾入来此処 以鬱陵子山島等 定以朝鮮地界 至有関白書契 而本国不有定式 今又侵犯我境 是何道理云 爾則謂当転報伯耆州 而久不聞消息 渠不勝憤椀 乗船直向伯耆州 仮称欝陵子山兩島監税将 使人通告 本島送人馬迎之 渠服青帖裏 着黒布笠 穿及鞋 乗轎 諸人並乗馬 進往本州 渠興島主 対坐廳上 諸人並下坐中階 島主問何以入来 答曰 前日以兩島事 受出書契 不啻明白 而対馬島主 奪取書契 中間偽造 数遣差倭 非法横侵 吾将上疏関白 歴陳罪状 島主許之 遂使李仁成 構疏呈納 島主之父 来懇伯耆州曰 若登此疏 吾子必重得罪死 請勿捧入 故不得禀定於関白 而前日犯境倭十五人 摘発行罰 仍謂渠曰 兩島既属爾国之後 或有更為犯越者 島主如或横侵 並作国書 定譯官入送 則当為重処 仍給糧 定差倭護送 渠以帯去有幣 辞之云雷憲等諸人供辞略同 備辺司啓請 姑待後日 登対禀処 允之。 翻訳 『粛宗実録』巻三〇 二十二年九月戊寅備辺司が安龍福等に推問した。彼は東莱(現在の釜山)に住んでおり帰省し母に会うため蔚山に赴くと、ちょうど僧の雷憲等に逢った。近年鬱陵島に往来した事を説明し、またこの島は海産物が豊富だと言うと、雷憲等は心を動かされ遂に船に同乗した。寧海の蒿仕事の劉日夫等を奮い立たせ、ともに出発しその島に到着した。主な山は三つの峰が三角にそびえている。南北にも、東西にも2日程かかる。山は雑木・鷹・鳥・猫が多く、倭の船もまた来泊していたので船人は皆恐れた。彼は先に「鬱陵島は本来我領域だ。倭人は何故敢えて越境侵犯するのだ。おまえら皆縛り上げるぞ。」と言って、進み寄り船頭を大喝すると、倭人は「我らは本来松島に住んでいる。偶然漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ。」と言うので、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ。」と言った。そして翌暁、船を曳いて子山島に入ると、倭人達は釜を並べ魚の膏を煮ていた。杖で撞いてひっくり返し、大いに叱り付けると、倭人達は片付け船に乗せ、帆を揚げ帰り去った。彼はなお船に乗り追いかけたが、狂風に遭遇し隠岐に漂着した。島主が入来の訳を聞いたので、彼は「近年私がここへ来たとき、鬱陵子山島等を以て朝鮮の地界と定めた関白の書契があるが、この国は徹底していない。今又我境界を侵犯するとはどういう訳なのだ。」と言った。そこで、伯耆州にこれを伝えるように言ったが、久しく消息がない。彼は我慢しきれなくなって、船に乗り直接伯耆州に向かった。「鬱陵子山両島監税将」と仮称し、人を使い通告すると、本島(本土)は人馬を送って迎えた。彼は青帖裏(官服)を着て、黒い布の笠をかぶり、靴を履き、籠に乗り、他の者は並んで馬に乗り、この州を進んで行った。彼は島主(鳥取藩主)を奮い立たせ対座し聴かせ、多くの人が並んでその下に下座した。島主(鳥取藩主)は入来の訳を聞いたので、「先日両島の事で書契をもらったのは明白であるが、対馬島主が書契を奪い取り、間で偽造し数人を遣わし倭は非法に(鬱陵子山島等を)横取りしている。私は関白に上訴し罪状を陳情する。」と答えた。島主(鳥取藩主)はこれを許したので、遂に李仁成を使い訴状を提出しようとすると、島主(対馬藩主)の父が伯耆州に来て、「もしこの訴状が提出されると、我が子は必ずや死罪になる。」と言い、この話はなかったことにしてくれと頼むので、関白に上訴することができなかった。しかし、先日国境を犯した倭の十五人は摘発され処罰された。そして、「両島があなたの国に属した後、更に国境を越える犯人がいたり、島主(対馬藩主)が横取りするようなことがあれば、国書を作り官吏を送り重大事とする。」と言ったと言う。そして、食料を与え代わりに倭が護送すると言ったが、彼は退去するので好意を断ると、雷憲ら他の者も同じように断ったと言う。備辺司は、後日その対処が決定するまでしばらく待つことを承知するよう申し付けた。
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