『粛宗実録』と安龍福証言とは? わかりやすく解説

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『粛宗実録』(1728)と安龍福証言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)

于山島」の記事における「『粛宗実録』(1728)と安龍福証言」の解説

1728年李氏朝鮮編纂された書物粛宗実録』には、1696年粛宗22年)に朝鮮安龍福鬱陵島での日本人漁労抗議するために日本行った時のことが書かれている帰国時に不法渡航疑い朝鮮政府捕らえられ備辺司尋問され時の証言内容中に安龍福は、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。……」と言った。)とある。当時日本では現在の竹島のことを松島呼んでおり、これ以外にも「鬱陵山島を以て朝鮮地界定めた関白書契がある」との記述があることから、韓国では現在の竹島独島)が于山島であり朝鮮領だった確証だとしている。しかし、安龍福証言に(……倭人は「我らは本来松島住んでいる。偶然漁に出て来ただけ……」)とあるが、松島は人が住め環境ではない。つまり安龍福日本人の呼ぶ松島鬱陵島近くにあるとされる于山島とし、話をでっち上げのである一連の安龍福証言は他にも事実合わない内容が多いことから、日本では安龍福当時朝鮮から渡航禁止されている鬱稜島や日本への不法渡航日本訴訟起こそうとした罪を免れるため事実過大に脚色し創作した考えられている。 (安龍福の虚言については安龍福参照) この安龍福松島発言後の朝鮮の書記影響した考えられ、これが明治時代日本記録にまで影響し現在の竹島問題へと発展している。 原文粛宗実録』巻三〇 二十二九月戊寅備辺司 推問安龍福等 龍福以為本居東莱 為省母至蔚山 適逢僧憲等 備説頃年往来欝陵島事 且言本島海物之豊富 憲等心利之 遂同乗船 與寧海蒿工劉日夫等 倶発本島山三峰高三角 自南至北 為二日程 自東至西亦然 山多雑木 倭船来泊 船人皆恐 渠倡言欝島本我境 倭人何敢越境侵犯 汝等可共縛之 仍進船頭大喝 倭言吾等本住松島 偶因漁採出来 今当還往本所 松島即子山島 此亦我國地 汝敢住此耶 遂拾良翌暁舟入山島 倭等方列釜煮魚膏 渠以撞破 大言叱之 倭等収聚載船 挙帆回去 渠仍乗船追趁 埣偶狂飆漂到玉隠岐 島主問入来之故 渠言頃年入来此処鬱陵山島等 定以朝鮮地界 至有関白書契本国不有定式 今又侵犯我境 是何道理云 爾則謂当転報伯耆州 而久不聞消息 渠不勝憤 乗船直向伯耆仮称欝陵子山兩島監税将 使人通告 本島人馬迎之 渠服青帖裏 着黒布笠 穿及鞋 乗轎 諸人乗馬 進往本州 渠興島主 対坐廳上 諸人並下坐中階 島主問何以入来 答曰 前日兩島事 受出書契 不啻明白 而対馬島奪取書契 中間偽造 数遣差倭 非法横侵 吾将上疏関白 歴陳罪状 島主許之 遂使李仁成 構疏呈納 島主之父 来懇伯耆州曰 若登此疏 吾子必重得罪死 請勿捧入 故不得禀定於関白前日犯境倭十五摘発行罰 仍謂渠曰 兩島既属爾国之後 或有更為犯越者 島主如或横侵 並作国書 定譯官入送 則当為重処 仍給糧 定差倭護送 渠以帯去有幣 辞之云憲等諸人供辞略同 備辺司啓請 姑待後日 登対禀処 允之。 翻訳粛宗実録』巻三〇 二十二九月戊寅備辺司安龍福等に推問した。彼は東莱現在の釜山)に住んでおり帰省し母に会うため蔚山赴くと、ちょうど僧の憲等に逢った。近年鬱陵島往来した事を説明し、またこの島は海産物豊富だと言うと憲等は心を動かされ遂に船に同乗した。寧海の蒿仕事の劉日夫等を奮い立たせ、ともに出発しその島に到着した主な山は三つの峰が三角そびえている。南北にも、東西にも2日程かかる。山は雑木多く、倭の船もまた来泊していたので船人は皆恐れた。彼は先に鬱陵島は本来我領域だ。倭人は何故敢えて越境侵犯するのだ。おまえら縛り上げるぞ。」と言って進み寄り船頭を大喝すると、倭人は「我らは本来松島住んでいる。偶然漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ。」と言うので、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ。」と言った。そして翌暁、船を曳いて子山島に入ると、倭人達は釜を並べの膏を煮ていた。で撞いてひっくり返し大い叱り付けると、倭人達は片付け船に乗せ、帆を揚げ帰り去った。彼はなお船乗り追いかけたが、狂風遭遇し隠岐漂着した。島主が入来の訳を聞いたので、彼は「近年私がここへ来たとき、鬱陵山島を以て朝鮮地界定めた関白書契があるが、この国は徹底していない。今又我境界侵犯するとはどういう訳なのだ。」と言った。そこで、伯耆州にこれを伝えるように言ったが、久しく消息がない。彼は我慢しきれなくなって、船に乗り直接伯耆州に向かった。「鬱陵子山両島監税将」と仮称し、人を使い通告すると、本島本土)は人馬送って迎えた。彼は青帖裏(官服)を着て、黒い布の笠をかぶり、靴を履き、籠に乗り、他の者は並んで馬に乗り、この州を進んで行った。彼は島主(鳥取藩主)を奮い立たせ対座し聴かせ、多くの人が並んでその下に下座した。島主(鳥取藩主)は入来の訳を聞いたので、「先日両島の事で書契もらったのは明白であるが、対馬島主が書契奪い取り、間で偽造し数人遣わし倭は非法に(鬱陵山島等を)横取りしている。私は関白上訴し罪状陳情する。」と答えた。島主(鳥取藩主)はこれを許したので、遂に李仁成を使い訴状提出しようとすると、島主(対馬藩主)の父が伯耆州に来て、「もしこの訴状提出されると、我が子必ずや死罪になる。」と言い、この話はなかったことにしてくれと頼むので、関白上訴することができなかった。しかし、先日国境犯した倭の十五人は摘発され処罰された。そして、「両島があなたの国に属した後、更に国境越え犯人がいたり、島主(対馬藩主)が横取りするようなことがあれば、国書作り官吏送り重大事とする。」と言ったと言う。そして、食料与え代わりに倭が護送すると言ったが、彼は退去するので好意を断ると、憲ら他の者も同じよう断ったと言う備辺司は、後日その対処決定するまでしばらく待つことを承知するよう申し付けた。

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