『精神現象学』における弁証法
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「弁証法」の記事における「『精神現象学』における弁証法」の解説
ヘーゲルが求めるのは、形式主義・操作主義によって獲得される表層的・外形的・空虚な個々の「体系知」(science)とは異なる、自然的実在のありのままの本質的規定・法則性(つまりは、絶対者・真理)の概念的把握である哲学、すなわち「学知」(Wissenschaft)である。そこで、人間の精神(意識)が、己の性質に則って、己にとっての「真・有」と「知」のズレを修正していく自己措定運動(「意識の弁証法」「意識の経験の学」)を経ながら、どのように「学知」(Wissenschaft)の完成へと到達していくのか、それを順序立てて叙述・描写するのが『精神現象学』である。 それは以下のような段階を経る。 意識(対象意識)感覚的確信 知覚 (知覚的)悟性 自覚(自己意識) 理性 精神精神 宗教 絶対知 矢崎美盛は、こう書いている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。 —矢崎美盛著『ヘーゲル 精神現象論』大思想文庫 第21、岩波書店、1936年 高山岩男は、こう書いている。 自覚の現象学は自己自身の意識、即ち自己認識を種々の人生経験により考察する現象学である。従って自覚の現象学の内容は人間界である。自然の事物の知識を事とする現象でなく人間界に於ける自覚を事とする経験である。こゝに於ける知は行って知る知であり、自覚の経験は本来的に実践的な生活行動である。前述の意識の段階は姿を変えて自覚の中に内在する。物は知覚的に知られる物ではなく同時に行動の対象としての物である。我は知覚や悟性の自我ではなく行動する自我である。自覚は行動我の自覚である。 —高山岩男著『辨證法入門』アテネ文庫 第53、弘文堂、1949年
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