「無条件降伏」の当否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:17 UTC 版)
「ポツダム宣言」の記事における「「無条件降伏」の当否」の解説
詳細は「無条件降伏」を参照 日本の降伏が「無条件降伏」についてはいくつかの見解があるが、無条件降伏は日本軍に対するものであって国家に対するものではない。一方で軍隊の無条件降伏という点については一致した見解がなされている(軍部の無条件降伏後も各地で散発的・組織的な戦闘が発生した)。 国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第十三条および降伏文書第二項にも使用されているが、これはいずれも日本の軍隊に関することであって、このためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を失うものであると解すべきではない。なお、外務大臣の東郷茂徳は第五条などから「(日本)国家に対しては無条件降伏を求めていない」と解釈していた上で、ポツダム宣言にソ連が加わっていない以上は日本側としては特使問題に関するソ連への申し入れに対する回答を待つべきではないか、と判断を下している。その後、日本は国体護持の条件を提示したが、連合国は国体護持に関して明確に回答せず(バーンズ回答)、日本政府は第12条に含意されているものと解釈してポツダム宣言を受諾している。 ポツダム宣言第12条は「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立」を求めており、バーンズ回答では「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって確立される」となっていた。これは天皇制問題を日本国民の意思に委ねるという連合国からの約束であった。 そもそもルーズベルトの無条件降伏による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており、揺れがある。トルーマンは、多くの側近の助言を受け日本に対する降伏要求については、無条件降伏の原則に一部修正を加え、ルーズベルトが否定した条件付降伏論の立場に立って対日降伏勧告のポツダム宣言を発した。 連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある。 これを受けて、1945年9月3日に連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。これに対して重光外相は、マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが(フレンスブルク政府)日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。
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