対日降伏勧告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:24 UTC 版)
「ポツダム宣言」も参照 ソ連の対日戦への勧誘は、フランクリン・ルーズベルト大統領時代から何度も行われており、ソ連側も対独戦終了後に態度を明確にすると回答していた。またアメリカは日本本土上陸作戦を検討していたものの、予想される損害があまりにも大きかったため、日本に対して明確な降伏勧告を行うことが必要であると考えられていた。日本への降伏勧告案は、事前にアメリカ陸軍長官のヘンリー・スチムソン、アメリカ海軍長官ジェームズ・フォレスタル、元駐日大使ジョセフ・グルーらの三人委員会で策定されていた。 7月15日、会議の始まる前の正午ごろ、トルーマンはスターリンから対日戦参加の確約を得た。しかし翌日には原子爆弾実験の成功が伝えられ、トルーマンはソ連の参戦がかならずしも必要ではないと考えるようになった。また、日本のソ連を仲介とした和平工作が進展中であるという情報を得たスチムソンは、対日降伏勧告をこの会議で行い、ソ連の懐に日本が飛び込むことを防ごうとした。バーンズはこの段階での声明は時期尚早であると反対したものの、ウィリアム・リーヒ最高司令官付参謀長が支持し、トルーマンのこの意見に同意した。 三人委員会の案をベースとしてポツダムにおいても修正作業が行われ、天皇制維持条項が削除されている。24日にはイギリスに声明案が渡され、25日、チャーチルは声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に変えるなどの修正を加えて回答した。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。7月26日、「ポツダム宣言」が発表された。当時日本と交戦していなかったソ連側の介入はほとんど無かった。宣言文に署名した蔣介石など中華民国関係者は宣言文策定や発表の場に参加しておらず、チャーチルも一時帰国していたため、宣言発表時にポツダムにいた署名者はトルーマンのみであった。
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