対日融和工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「対日融和工作」の解説
1939年9月にはドイツがポーランドに侵攻し、イギリスも宣戦布告し第二次世界大戦となった。しかし、チャーチルはその後も日本とドイツを引き離す努力を続け、第二次大戦開戦後の1940年5月17日に、チャーチルは駐英日本大使館において、日本が参戦しないよう(ドイツと同様にイギリスの敵国とならないよう)欧州戦線について淡々と言及した。 当時の重光葵駐英大使はそれまでチャーチルを「平時の器でなく、変事の才」とみて反日的な政治家とみなしていたが、国家存亡の危機という難局に直面して動じないチャーチルに感嘆し、これを機にチャーチルとの日英関係調整に鋭意取り組んだ。しかし、重光の報告は日本政府各省のなかで回覧されることはなかった。 1940年の夏から1941年の夏頃にかけては、チャーチルは日本との開戦を避けるべく努力していた。1941年11月10日のロンドン市長午餐会では日英関係の悪化を悲しむ発言をしているが、結局、日英開戦を回避することはできなかった。1942年2月15日、日本軍がシンガポールを攻撃してイギリス軍に勝利をおさめた際にはチャーチルは大きなショックを受け、議会で日本の行動を「犯罪的狂気」にたとえている[要文献特定詳細情報]。大戦末期のポツダム会談では、チャーチルは日本に対して比較的融和的な態度をとるべきだと主張したが、アメリカ大統領トルーマンは同意しなかった。日本の降伏を決定づけさせた日本への原子爆弾投下については、もし原爆を使わずに日本本土上陸作戦を決行した場合、「100万人のアメリカ人とその半数のイギリス人が死ぬ」という見積りを立てていた。
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