日本との開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:23 UTC 版)
「ヘンリー・スティムソン」の記事における「日本との開戦」の解説
スティムソンの日米交渉への関与は限定的であったが、日記にはその交渉の様子が細かくつづられている。1941年10月28日にはコーデル・ハル国務長官がアメリカの即時参戦を望んでいるのかと問われた際にはノーと答え、「昨今の状況をフィリピンでのアメリカの立場を強化する機会」と考えており、「可能であれば枢軸国グループから日本を振り落とすことを念頭に置いている」と付け加えた。11月26日にハル・ノートを手交したハルは、27日の朝に「私はこの件(日米交渉)から手を引いた。あとはあなたとノックス海軍長官の出番だ」とスティムソンに報告している。 真珠湾攻撃の一報をルーズベルトから受けたスティムソンは日記に「パールハーバーのニュースを聞いたとき、最初に浮かんだ思いは、これで優柔不断のときは終わり、この危機でアメリカ国民は団結するであろうという安堵(relief)の気持ちだった。(中略)なぜなら、愛国心に欠ける人々がこれまでこの国を分裂させ無関心層を増幅させていたが、わが国の国民が団結すれば恐れるものは何も無いと感じたからだ」と書いた。「安堵」という表現はスティムソンらが日本の攻撃を事前に知っていたとする「真珠湾攻撃陰謀説」の憶測を呼んだ。また、攻撃の10日前の日記には次のような記述があり、これも陰謀説を補強する材料とされる。 差し迫った日本との戦争の証拠について議論するために、ルーズヴェルト大統領に会った。問題は、『我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか』 — スティムソン、Stimson diary, November 25, 1941 しかしスティムソン自身は「陰謀説」を「馬鹿げたこと」と一蹴し、奇襲を防げなかったとしてジョージ・マーシャル陸軍参謀総長への責任論が政府内で高まることを危惧していた。
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