「泡沫候補」とされた側の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 11:42 UTC 版)
「泡沫候補」の記事における「「泡沫候補」とされた側の反応」の解説
このような「泡沫候補」を意図的に無視、排除するマスコミの報道姿勢について「泡沫候補」とされた側は、意に介さない候補者がいる一方、政治的立場や思想を超え、主としてマスコミ批判の文脈から否定的な反応を示す候補者も少なくなく、中には公職選挙法・放送法に抵触していると主張し抗議活動を行ったり、法的手段に訴えた候補者も複数いる。 大政翼賛会が干渉し、不公平な選挙であったといわれる1942年の翼賛選挙において、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」であったが旧東京都第6区にてトップ当選を果たし衆議院議員を務めた経験がありながらも、戦後はほぼ一貫して泡沫候補として扱われた赤尾敏は戦後の選挙について、「新聞やテレビから消されてしまえばどんなに運動しても当選しない」「マスコミが持ち上げただけで当選圏内に入る。マスコミの影響が大き過ぎるが有権者がそれに気付いておらず、有権者は「選挙は公平に行われている」と思い込んでいる」「選挙は公正ではない。マスコミの選挙であり、不公平極まりない」「翼賛選挙は東條(英機)さん(大政翼賛会総裁)が責任を負ったが、今のマスコミは誰も責任を負わない」と早くから度々主張しており、赤尾が率いた大日本愛国党もマスコミ批判を主要な活動の一つとしていた。また反共・右翼活動家の深作清次郎も「天に唾するもの」とマスコミ批判を展開していたほか、赤尾・深作らとは全く異なる政治的立場にあった雑民党の東郷健も立候補のたびにマスコミの報道を「不公平」と指摘している。1950年代から1970年代にかけて国政選挙・地方選挙を問わず頻繁に立候補し、日本選挙史上最多の立候補歴を有するという小田俊与は「泡沫候補」と呼ばれることに強い抵抗感を抱いており、小田の出馬行動を批判的に書いた新聞に対し、訴訟を匂わす発言をするなどして脅しをかけたこともあるという。 1992年の第16回参議院議員通常選挙比例区に民族派政治団体「風の会」から立候補した野村秋介は、同じく同選挙に環境系政治団体「希望」から立候補した藤本敏夫らとともに、選挙後「少数派・諸派の立候補者を排除するマスコミの選挙報道は公職選挙法違反である」としてマスコミ各社を刑事告訴した。野村は新右翼、藤本は新左翼の活動家出身であったが、共に「泡沫候補」「泡沫政党」とみなされマスコミではほとんど取り上げられなかった。特に「風の会」については選挙期間中『週刊朝日』誌上の風刺イラスト「ブラック・アングル」において筆者のイラストレーター山藤章二が、これを「虱の党」と揶揄した作品を発表するなどしたため、マスコミの中で特に朝日新聞にこだわっていた野村は抗議の姿勢をより強めている。また「希望」についても、藤本が歌手加藤登紀子の夫であり、獄中結婚等のエピソードがあったため、藤本本人は芸能界と無関係であるにもかかわらず芸能ニュースとして扱われる例も見られた。野村と藤本は政治的立場の違いを超えて共闘し、更に民事裁判も起こしたが、いずれも認められなかった。また1950年代より20回以上にわたって国政選挙などに立候補していた品川司も、1992年の参議院選挙後「「泡沫候補」を意図的に排除するマスコミの報道は公職選挙法・放送法に違反しており、特定の候補者に不利益を与えている」としてNHKなどを相手取り民事裁判を起こしたが、一審の東京地方裁判所おいて品川の訴えはすべて棄却されている。 一方、1975年東京都知事選挙と1979年東京都知事選挙の二度にわたって立候補した前衛芸術家の秋山祐徳太子は、自ら進んで「泡沫候補」と称し、「独自の戦い」を敢行している。秋山は1965年、美術展に自分自身を出品する活動を行っており、政治の「ポップアート化」を掲げ選挙を通じて独自の表現を行った事例である。当時の選挙ポスターは国立国際美術館などに作品として収蔵されているほか、2002年には著書『泡沫桀人列伝―知られざる超前衛』を出版。落選後も自ら「泡沫のソムリエ」等と称して芸術・執筆活動を展開した。
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