「法隆寺の胴張りの起源は古代ギリシャのエンタシス」説
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1893年(日本の明治時代)、帝国大学(現在の東大)院生の伊東忠太が、法隆寺の胴張りの起源が古代ギリシャにあるとする論文(学位論文)「法隆寺建築論」を発表した。この説は和辻哲郎が昭和時代に発表したエッセイ『古寺巡礼』によって特に有名となった。 ただし、建築史家の藤森照信によると、この説は建築史的には「ウソ」とのこと。この説が生まれた背景には、明治時代の日本の建築家において、「日本建築が西洋建築に対して遅れた物である」という大きな劣等感があったため、ヨーロッパ文化の原点であるギリシャと日本の建築がつながっていることを示す狙いがあったという。 ギリシャ美術史研究家の前田正明も、ギリシャ建築様式とその周辺諸国への伝播の経緯から考察し、「たとえそこにエンタシスが観られるからといってこの法隆寺の中門、金堂内陣などの柱をドリス様式の影響と観るのは誤りである。」と否定している。 伊東は自説を証明するため、中国からインド、トルコなどを経てギリシャまで3年がかりで徒歩で旅行したが、日本とギリシャ以外のどこにもエンタシスの柱を見つけることはできず、結局この説を証明することは出来なかった。なお伊東はアジアでの調査中に浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が率いる大谷探検隊と遭遇したことがきっかけで交流が始まり、築地本願寺の設計依頼を受けることとなった。
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