「偉大なる落伍者」への決意
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「坂口安吾」の記事における「「偉大なる落伍者」への決意」の解説
中学2年の時に、4科目(英語、博物など)で不合格となり留年したため、家庭教師をつけられたりしたが、逃げ回っていた。勉強をしない炳五に漢文の教師が、「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴと名のれ」と黒板に「暗吾」と書いたとされ、これが「安吾」の由来とされる。1922年(大正11年)、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、ボードレールや石川啄木の影響を受けていた炳五は、試験の際に答案を配られた直後、白紙で提出するなど反抗的態度を取る。この時、「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた」と安吾は自伝小説『いづこへ』に記しているが、実際は柔道部の板戸に彫ったという。炳五が再び落第濃厚で、放校されることを危惧した父や兄・献吉が、9月に東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)3年に編入させたことがきっかけで、父や長兄夫婦、四兄・上枝と共に東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪(現・西早稲田2丁目)の借家に移り住み、浅草の寄席にも出かけた。秋頃、仁一郎は胃癌と診断される。母と離れて暮しはじめ、炳五は世の中の誰よりも母を愛していることをのちに知る。 文学作品は、兄・献吉の影響もあり早くから読んでおり、私立豊山中学校編入後は同級生の山口修三、沢部辰雄の影響で宗教にも目覚める。谷崎潤一郎、バルザック、芥川龍之介、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アントン・チェーホフなどを愛読した。また、詩歌では石川啄木や北原白秋などを愛読し、短歌を作っていた。その他にも、日本史に興味を持ち、『講談雑誌』を愛読していた。自伝小説『風と光と二十の私と』には、ボクシング小説「人心収攬術」の翻訳を、友人Sの名前で雑誌『新青年』に掲載したとあるが(結局掲載されなかったのか)、その掲載記事は見当たらない。文学に自信が持てず、豊山中学時代は、野球や陸上競技に熱中、角力大会に入賞し、5年次の1924年(大正13年)に第10回全国中等学校陸上競技会(インターハイの前身)のハイジャンプで1メートル57センチの記録で優勝した。
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