「倭國王」の解釈と帥升(師升)の所在地
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「帥升」の記事における「「倭國王」の解釈と帥升(師升)の所在地」の解説
『後漢書』の「倭國王帥升(師升)等…」の「倭國王」の解釈や「帥升(師升)」の所在地について様々な説があるが、推測の域を出ない。この「倭國」は、昔は、「統一された倭国全体」をさしていると解釈されていた。室町時代の瑞渓周鳳の書いた対外関係史、『善隣国宝記』にしても、松下見林の『異称日本伝』にしてもその説であった。 しかし、『翰苑』の、『後漢書』を引用した箇所には「倭面上國王帥升…」とある。また、北宋版『通典』には「倭面土國王師升等…」とある。また、『唐類函』「百十六巻」「邉塞部一」「倭」の条には、『通典』からの引用として、「倭國土地王師升等…」と書かれている。また、『日本書紀纂疏』の、後漢書を引用した箇所には、「倭面上國王師升等…」とあり、『釈日本紀』「解題」の、後漢書を引用した箇所には「倭面國」とある。『異称日本伝』の、『通典』からの引用には、「倭面土地王師升等…」とある。内藤湖南はこれらの記事に注目し、『後漢書』の原本には「倭面土國王師升」とあったのではないか、しかし難解な表現なのでそれが転写されていき、諸書に引用されていく中で、いろいろと書きかえられ、書き誤られ、「倭國」になったり、「倭面國」になったりしたのではなかろうか、という結論に達した。そしてさらに、「倭面土」は「やまと」の中国式表記ではないかとした。本居宣長は、『通典』では「倭面土地王師升等」と表記されていることに気づき、「面土地」の三字はどういう意味か明らかでないが察するに「一つのちひさき國の王」のようだ、と述べている。 宣長の考えを発展させて「一つのちひさき國」を探しあてようとしたのは白鳥庫吉博士であった。白鳥氏は、面の古い字体はしばしば回に見誤られやすいといい、「倭面土國」は正しくは「倭回土國」であったとし、それは「倭の回土(ヱト、weitu)國」とよむべきだとして、伊都国をさしているとした。また、橋本増吉は、日本書紀の神功皇后の巻には「松浦県(まつうらあがた)」は「梅豆羅(めずら)國」ともいったと記してあることや、面土の古音はカール・グレーソンによるとMian't`uoであるということを根拠に、「面土」はmetu-laの音訳だとして、「面土國」を「末盧國」にあてる説を唱えた。 このほか、「倭面土」を「ヤマト(ワミャト)」と読む説、帥升は奴国王位を継承したとする説、伊都国王だったとする説などがある。 また、「面土」を青刺のことだと解釈して、「倭面土國」を入れ墨の風俗の国だとする説もある。
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