「倭」という呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 19:52 UTC 版)
「大和」も参照 『古事記』や『日本書紀』では倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。 奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「邪馬台国」における「邪馬台」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致する。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない。 8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である。同地は椎根津彦を祖とする倭国造の本拠であった。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。 737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(757)12月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。
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