「個別」と「両方」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:22 UTC 版)
「ヒッピアス (大)」の記事における「「個別」と「両方」」の解説
27. ソクラテスは、(上記25でヒッピアスが述べているがごとく)「聴覚を通じての快」と「視覚を通じての快」が個別としても両方としても「美」であるとするならば、それらを「美」あらしめているものも、それら個別にも両方にも共通して随伴しているのではないかと問う。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、ではその「美」あらしめているものが個別にも両方にも共通して随伴しているのであれば、先に述べた(上記23)ような聴覚・視覚以外の感覚の「快」にもそれは共通して随伴していることになるのではないかと指摘。そして、実際にはそうは言われず、「聴覚・視覚」に限定されており、全ての「快」ではなく、「聴覚・視覚を通じての快」こそが「美」であると定義されていると指摘。ヒッピアスも、同意。ソクラテスは、ということは「美」あらしめているものは、個別にも両方にも共通して随伴しているのではなく、個別に随伴しているものと、両方に随伴しているものは別ものであり、また、聴覚・視覚以外の感覚を排除している以上、「美」あらしめているものは、個別にではなく、両方の側に随伴していることになるのではないかと指摘。ヒッピアスも、同意する。 28. ソクラテスは、では「両方は美しい」が「個別は美しくない」ということでいいか問う。ヒッピアスも、同意する。ソクラテスは、しかし先にヒッピアスが述べた(上記25)ように、個別にも両方にもそなわっている性状もあり、自分がその後に述べた(上記26)ように、そうでないものもある、果たして「美」はどちらであるか問う。ソクラテスは実のところ、後者が「美」であることは理屈に合わないと思うと述べる。ヒッピアスは、ソクラテスの立場に同意する。ソクラテスは、それでは「美」と「聴覚・視覚を通じての快」は別ものであり、「聴覚・視覚を通じての快」という定義は誤りだったということになると指摘。ヒッピアスも、同意する。
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