《物の味方》 - 評価・影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 22:54 UTC 版)
「フランシス・ポンジュ」の記事における「《物の味方》 - 評価・影響」の解説
文芸誌『ムジュール(韻律)』に発表するなどして詩作を続け、1939年にはジャン・ポーランの助言を得ながら詩集『物の味方』をほぼ完成させていたが、第二次大戦の勃発で出版が遅れた。1941年にポンジュはリヨンのレジスタンスに参加し、主に南仏の自由地域の労働者と新聞記者との連絡役を担っていた。また、マルセル=ガブリエル・リヴィエール(フランス語版)が1859年に創刊し、大戦中にも引き続き地下出版された『ル・プログレ(フランス語版)(進歩)』に寄稿し、この活動で詩人のジョー・ブスケ(フランス語版)や詩人・評論家のジャン・トルテル(フランス語版)、戦時中に詩「自由(フランス語版)」を発表したエリュアールと親交を深めた。1943年には、戦時中に地下出版社として創設された深夜叢書から刊行されたエリュアール編纂のレジスタンス詩人22人のアンソロジー『詩人たちの名誉(フランス語版)』にロラン・マルスの偽名で参加し、「判断だ、予言ではない」と題する詩を発表した。 この間、ジャン・ポーランの尽力により、1942年に『物の味方』が新フランス評論社から「メタモルフォーズ叢書」の第13巻として出版された。日常的な事物を題材とする「苔」、「煙草」、「籠」、「季節の循環」などを収めたこの詩集はたちまち文壇の注目を集め、戦後は一般大衆にもポンジュの名が知られるようになった。ポンジュが人間の観念、感情を排して表現する物、たとえば「雨」は、「断続的な細かいカーテン(あるいは網目)」であり、「非常に軽そうな水滴の、執念ぶかいけれどもかなりゆったりした落下」であり、「牡蠣」は「ねっとりと緑っぽい小袋のような沼」を持ったものである。こうした辞書的、物理学・化学的、博物誌的な描写でありながら、日常言語の枠組みを超えた斬新な表現によって「物の味方をする」詩人を真っ先に絶賛したのは、同じくレジスタンスに参加したアルベール・カミュであり、二人は以後、カミュの『シーシュポスの神話』について書簡を交わすなど親交を深めていった。また、ピカソ、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエらの画家からも評価され、1948年には自らを画家になぞらえた随筆『画家の仕事部屋』を著し、フォートリエ、ジョルジュ・ブラック、エミール・ピック(フランス語版)について論じるほか、1949年には、フォートリエらのエッチング集『手作りの栄光』のテクストを書いている。芸術家との共作は、さらに、詩人ミシェル・レリスを介して知り合った画家ウジェーヌ・ド・ケルマデック(フランス語版)との詩画集『水のコップ』、写真家モーリス・ブランの作品を多数掲載した『セーヌ川』、ジャン・シニョヴェール(フランス語版)との詩画集『蜥蜴』へとつながっていく。なお、日本で最初にポンジュが紹介されたのも、1952年に東京国立博物館で開催されたブラック展で、ブラックがポンジュの詩に挿絵を施した「5つのサパート」が展示され、この機に、美術雑誌『みづゑ』の「ブラック特集号」に美術評論家の今泉篤男の記事「フランシス・ポンジュ氏について」が掲載されたときであった。 だが、ポンジュの評価を確実なものとした最初の本格的なポンジュ論は、1944年に『ポエジー』誌に掲載されたジャン=ポール・サルトルの「人と物」であった(『サルトル全集(第11巻、シチュアシオン1)』所収)。サルトルはこの論考で、ポンジュを実存主義詩人と名付け、「物の本質の理解を彼より遠くへ推し進めた人は誰もいない」と評した。さらに、「詩篇の内的構造は明らかに羅列」、「モザイク」であり、「詩篇はしばしば対象に接近する一連の努力のごときものとなり、その接近の一つ一つが一節を形成している」と分析している。ポンジュはこの後、アラン・ロブ=グリエらのヌーヴォー・ロマンの先駆者とみなされ、フィリップ・ソレルスら『テル・ケル』派の唯物論的言語観に大きな影響を与えた。さらにジャック・デリダは1988年出版の『シニェポンジュ』で、これらの解釈を踏まえて、詩人の表現と物自体の表現を限りなく近づけた彼の作品は、物の自律性、独自の法・秩序が支配する世界であると論じている。
※この「《物の味方》 - 評価・影響」の解説は、「フランシス・ポンジュ」の解説の一部です。
「《物の味方》 - 評価・影響」を含む「フランシス・ポンジュ」の記事については、「フランシス・ポンジュ」の概要を参照ください。
- 《物の味方》 - 評価影響のページへのリンク