鎖国 背景

鎖国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/22 02:20 UTC 版)

背景

南蛮貿易の開始

明朝中国は海禁政策を採っていたが、勘合貿易により日明間の貿易は行われていた。しかし、1549年(嘉靖28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのがポルトガルであった。ポルトガルはトルデシリャス条約およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年にはマラッカを占領していたが、1557年にマカオに居留権を得て中国産品(特に)を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。

徳川家康が政権を握ると、オランダ、イギリスに親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまりなかった。結果イギリスは1623年に日本から撤退、オランダも日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった[注 10]。なお、当時のスペインの関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年にセバスティアン・ビスカイノが使節として駿府の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。

キリスト教の禁止

ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年のフランシスコ・ザビエルの日本来航以来、イベリア半島(スペインやポルトガル)の宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や徳川幕府下の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒(当時の名称では「切支丹」)の数は九州を中心に広く拡大した。当時、近畿地方から東海地方を勢力圏としていた織田信長は、これを放任、豊臣秀吉も当初は黙認していたが、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)[注 11][注 12]

家康は当初貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなった。また、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。また、国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。ただこの後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことからこの禁教令は「鎖国」と直結するものではないとする指摘もある[34]

当時海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専らカトリック教会であり、その動機として、宗教改革に端を発するプロテスタント勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。一方、通商による実利に重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機は薄く、特に当時、スペインからの独立戦争(八十年戦争)の只中にあったオランダは、自身が直近までカトリックのスペインによる専制的支配と宗教的迫害を受け続けたという歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識がとりわけ強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言える。

とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。

キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく、平戸のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[35]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[36]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[37][38][39][注 13]

オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[43][注 14]

エンゲルベルト・ケンペル1690年代の出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[44][注 15]

1637年9月、長崎奉行榊原職直馬場利重はフランソワ・カロンに対してマカオマニラ基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまった[47]。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志もなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞オランダ人忠誠心は、大名将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している[47]。この点は、この文書がオランダの上層部で議論されるようになったときにも失われることはなかった。将軍に仕えるという評判を捨てて、貿易に影響を与えるか、それとも侵略に人員と資源を投入して、会社の全艦隊が破壊されるかもしれないという大きな危険のどちらかを選ばなければならなかったのである。オランダ人は後者を選び、日本の侵略軍をオランダ船6隻でフィリピンに運ぶことに同意した[47]。その後まもなく長崎代官末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これに対し、オランダ側はスヒップ船[注 16]4隻とヤハト船[注 17]2隻を派遣することとした。しかしながら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった[注 18][48]

アメリカ合衆国歴史家ジョージ・エリソンはキリスト教徒迫害の責任者をナチスホロコーストで指導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンと比較した[49][50]

二港制限令とイギリス商館の撤退

イギリス商館リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[51]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[52]

オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明したが、島津家久はこれを信じて、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[53]

1616年の二港制限令は、コックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスの発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[54]。二港制限令はイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることを決定した。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[55]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[56]

イギリス商館はその後も続いたが、コックスは秀忠に謁見して一時的な撤退の許可を得た。その後はイングランド内戦クロムウェルの介入のためイギリス人の来航は数十年以上経過した後のリターン号事件まで待つことになる[57]

1673年、イギリス船リターン号が来航し通商再開を求めたが、イギリス人のキリスト教禁令遵守を疑った幕府は拒否した[58]

武器・傭兵の禁輸

秀吉による文禄・慶長の役が失敗に終わり、国内外に大きな被害を与えたため、江戸幕府の対外進出は不活発なものになった。一方で、先発のスペイン・ポルトガルと後発のイギリス・オランダは、貿易の主導権を握るため、東南・東アジア各地で武力衝突を行った。これらの武力衝突や現地での植民地獲得のため、日本の武器や傭兵としての人員が注目され、数多くの武器・浪人が海外へ流出した。

この結果、現地での日本人浪人による蛮行が問題となり、家康に東南アジアから国書で抗議される事態に発展、これに対して家康は現地の一存で日本人を処罰することを認めた。その後、秀忠の治世になると、武器・浪人を含む日本人の海外流出を禁じる方針に転換、また国内への鉛等の武器輸入も幕府が独占した。

島原の乱

徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降出島でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された。この時の交換条件として徳川幕府は、ポルトガルが年額銀80貫払っていた出島使用料を、オランダに対しては年額銀55貫に減額している。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した[注 19]。しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。

貿易の管理

戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に(特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に糸割符制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための定高貿易法が定められ管理貿易に移行した。また現代的視点では、長崎の出島・を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領(天領)、若しくは親藩譜代大名領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究がある[要出典]。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた[59]山丹交易は、当初、松前藩自藩領内の蝦夷アイヌ)を介し、樺太宗谷に来航する山丹人と取引した。これは、間接的には大陸にある清の出先機関・デレンとの貿易であった。山丹交易は松前藩の収入の一角を占めていたが、1807年文化4年)の第一次幕領期以降、蝦夷地北海道樺太北方領土得撫郡域)は公議御料となり、交易は幕府(箱館奉行)直営とし、交易地も白主会所に限定された。また、18世紀の中頃から、北樺太の近くに住む樺太アイヌの一部には、幕藩体制役職を持ったまま間宮海峡を超えて大陸・デレンとの貿易を行う者もいたが、幕吏松田伝十郎の改革以降大陸渡航は禁じられた。この改革で、山丹人は直接江戸幕府に朝貢するようになった。

「鎖国」に対するオランダの認識

「鎖国」後しばらくの間オランダは、デンマークやフランスのようなプロテスタント諸国[疑問点][要出典]が交易を求めてきたとしても徳川幕府がこれを拒否しないのではないか、すなわち「鎖国」は不安定ではないか、と考えていた。このため、元オランダ商館長で滞日期間が20年を超えており1667年にフランス東インド会社の長官に就任したフランソワ・カロンが「日本との通商を求めるのではないか」と危惧している[注 20]。また英国船リターン号が1673年に貿易再開を求めて来航した際には、事前にオランダ風説書にて英国王チャールズ2世がポルトガル王女キャサリンと結婚したことを幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。ところが、18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた[60]


鎖国祖法観

実現はしなかったものの、18世紀後半に蝦夷地開発に関連して田沼意次はロシアとの貿易を考慮しており、松平定信もロシアとの小規模な貿易を考えて、蝦夷地に来航したアダム・ラクスマン信牌(長崎への入港許可証)を与えていた。この信牌を持ったニコライ・レザノフが1804年に長崎に来航し、通商交渉が行われたが、幕府は最終的に通商を拒否した。「海外との交流を制限する体制を自己の基本的な外交政策とする」という明確な認識(鎖国祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、この事件をきっかけにしているという説もある[61]。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は1853年と指摘されているとおり[62]、「鎖国祖法」というのは後世の研究者による講学上の造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている[63]








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