唐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 15:41 UTC 版)
政治
律令体制とその崩壊
律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝の時に「開皇律令」が編纂されていた[181]。唐もそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた[182]。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である[183]。
後述する官制・府兵制・均田制なども全て律令の規定するところである[184][185][186]。
唐の律令は何度か改変され、玄宗の開元二十五年(737年)に完成を見る[187]。この律令は開元二十五年律令と呼ばれ[183]、後世に唐代律令の典範とされた[187]。しかしこの時点で既に現実社会と律令体制の間に乖離が生じおり、この間を埋めるのが皇帝の意思たる詔勅およびそこから法となった格が重要視されるようになる[183][187]。唐代においてはあくまで皇帝の意思が律令に優先するが、あくまで律令が根本であり、皇帝であっても恣意的に律令を覆すことは批判の対象であった。これが隋唐の律令支配の特徴とされる[183][188]。
安史の乱を契機として唐の律令体制は急速にその力を失い、現実社会に対応するために律令に無い両税法・使職などの制度が設けられることになる[187]。
官制
官品制度
唐の官僚は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられており[189][190]、ここまでを「流内官」と呼び、この下を「流外官」という[190]。
これら官僚に付与される肩書には散官・職事官・勲官・爵の四種類がある[189]。この内、職事官が実際の職務を表すものであり[189]、散官は実務を伴わずその人物がどの品階にいるかということを示すものである[190]。散官の官品と職事官の官品とは一致するのが原則であったが、散官よりも官品の高い職事官に就く場合は職事官の職名の頭に「守」の字、逆の場合は「行」の字を付けて区別されていた[191][192]。
勲官は軍功によって付与される恩典で[191]、爵は皇族や高い功績を挙げた功臣に与えられるものである[191]。
これら官人に与えられる特権として、九品以上の流内官は本人の課役が免除され、五品以上は同居親族の課役が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた[191]。また罪を犯した場合であっても最も重い死刑でなければ銅を納めることで免れることができた[191]。
官人になるためには、前述の「蔭」で任用されるか、あるいは科挙に合格することが必要となる。しかし当時はまだ科挙出身者は蔭出身者に対して大きな不利を背負わされていた[193]。
中央官制
律令制下の官制は三省を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する[194]。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令であるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった[195][196]。
これら六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定された[195]。後に皇帝の命によって新たに参与朝政・同中書門下三品などの肩書で参加する例が増え[195]、逆に僕射が宰相会議のメンバーから外れた。この宰相会議は最初門下省内の聖事堂で行われていたが、後に中書省に移り、中書門下と改称した[195]。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した[195]。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった[195]。
8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するために律令で規定されない新たな官職が設けられるようになった。これらの新たな官を使職という[197]。主なものに州の監察を行う観察使[198]、専売制を司る塩鉄使[199]、税および出納を司る度支使[198]・物資の運送を司る転運使[200]などがある。
度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち[198]、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる[79]。
またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった。これら翰林学士はいわば皇帝の秘書官であり。宰相に継ぐ大きな権限を持つことになる[201]。
地方制度
唐では隋から引き継いで州県制を採った[202]。州の下に数県が所属し、州は全国で約350、県は全国でおよそ1550あった[202]。特別な州として府があり、唐初には首都長安・副都洛陽が所属する京兆府と河南府、唐の故地である太原府があったが、安史の乱以降は徐々に増やされて唐末には10あった[202]。また重要拠点に置かれる州を都督府と呼び、長官は都督。規模によって大中小の三等に分けられる。通常の州の長官は刺史であり、戸数によってこちらも上中下の三等に分けられる[202]。州の下に県があり、こちらも戸数によって上・中・中下・下の四等に分けられる。また府に属する県のうち城内にある県は京、城外にある県は畿と呼ばれた[203]。
県の下の行政単位が、郷と里(郷里制)である。100戸をまとめて里として里正を起き、5里をまとめて郷とする(郷正は一時期を除いて置かれなかった)[203]。里正は里の者から選ばれ、戸籍の作成・勧農・里内の不正の監視・労役の割付などにあたった[204]。また都市には坊ごとに坊正が置かれ、聚落には100戸ごとに村正が置かれた(100戸以下の場合は一人、以上なら複数となる)[205]。
更に州の上に道があり、太宗の時に全国を10の道に分けた[206]。元々、道はその下にある州県の行政を観察するために設けられた単位であり、観風俗使・宣労使などの名前を持った臨時の役職が派遣されていた。武后期に各道ごとに按察使などの役職が監察に当たり、玄宗期の711年には按察使の職を州の長官たる刺史等が兼任するようになる[206]。更に玄宗の734年に15道に再編成した[206][207]。それに伴って各道の刺史の中から一人を選んで採訪処置使としてそれぞれの道の治所に駐在させた[206]。ここに至って道は州の上の行政単位となった[206]
- 京畿道、治所長安
- 関内道、治所長安
- 都畿道,治所洛陽
- 河南道,治所汴州(現開封市)
- 河東道,治所蒲州(現永済市)
- 河北道,治所魏州(現河北省大名県東北)
- 山南西道,治所梁州(現漢中市)
- 山南東道,治所襄州(現襄陽市襄州区)
- 淮南道,治所揚州(現揚州市)
- 江南東道,治所蘇州(現蘇州市)
- 江南西道,治所洪州(現江西省南昌市)
- 黔中道,治所黔州(現重慶市彭水ミャオ族トゥチャ族自治県)
- 隴右道,治所鄯州(現海東市楽都県)
- 剣南道、治益州(現成都市)
- 嶺南道、治広州(現広州市)
採訪処置使が後の安史の乱後に観察処置使(略して観察使)と名を変えて、節度使や防御使などの軍事職と観察使を兼任することで藩鎮となる[80]。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える[208]。ただし観察使の職掌範囲(=藩鎮の勢力範囲)は数州くらいと15道よりも狭く、藩道と呼んで区別する[209]。村落の方でも里正・村正などの政府によって置かれた役人の力は衰え、代わって村の有力地主層が村長・村耆などの名前で村の行政を司るようになった[210]。
税制
均田・租調役
均田制は全国の丁男(21歳から59歳までの男性)及び中男(18歳以上の男性)一人につき、永業田が20畝・口分田が80畝まで支給される[211][212]。永業田は世襲が認められる田地で、クワ・ナツメ・ニレを植えることが義務付けられる[212]。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない[211][213]。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地(これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ)では規定の半額が支給される[214]。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている[215]。
これに対して、農民は租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両(または布2.5丈と麻3斤)を収める。年間20日の労役の義務があり、これを免除して貰うために納める税を庸と呼び、労役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある(雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く)[216][217]。府兵制は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す(#兵制で後述)。
以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、戦前は均田制は土地所有の制限を定めたものであり、土地の返還は行われていなかったとする見解もあった[218][219][220]。しかし新史料の発見により、少なくとも部分的には給付・返還が行われていたと考えられている[218][221]。
男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する戸籍が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ[222]、戸の資産ごとに上上・上中・上下・中上…、下中・下下と分ける九等(戸等制)に分けられた。ただし戸等によって租庸調の額は変化せず、役や受田の順番などによって負担の均一が図られた[222]。
しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民(逃戸)が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ[76][223]。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。玄宗期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが宇文融の発案で行なった括戸政策である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという[224][225]。
しかし大土地所有の進行・村落での階層分化などの社会変化傾向は変わらず、更に安史の乱終結後に各地に配された藩鎮勢力は租庸調とは別の税を勝手に取り立てて自分たちの収入としていた。もはやここに至って均田制・租調役制は完全に行き詰まったといえる[116][226]。
両税法
780年、宰相楊炎により租庸調に変わる新たな税制両税法が上申された。両税法の主な特徴は以下の通り[116]。
- 両税への一本化。
- 以前から租庸調とは別に戸に課税する戸税・土地に課税する地税・同じく土地に課税する青苗銭などの税金があったがこれを全廃する。既述のような藩鎮の勝手な徴収を防ぐ意味もあった。
- 6月に麦を納める夏税、11月に粟・稲を納める秋税の二回徴収とする。これが両税の名の由来である。
- 戸を対象に課税し、資産の多寡によって税額が変わる。
- それまでの丁男を等質と見なす考えを捨て、戸ごとに財産を計って課税額を決める。
- 量入制出から量出制入への移行。
- まず必要な予算を先に決め、両税以外の歳入を全て計算。予算に足りない分を両税の税額とした。
- 資産計算・納税共に銭が原則。
- 当時農村でも銅銭が普及しつつあり、それに対応するもの。ただし現物による折納も認める。
- 主戸・客戸の区別の撤廃。
両税法の施行は均田制下での土地所有制限を自ら否定したに等しく、これ以降の唐では大土地所有が更に加速することになる[116][117]。ただし形式的には唐滅亡まで均田制・租庸調制は続いた[116]。
専売制
両税法より前の758年に塩の専売制を実施した。専売の統括をする役職が塩鉄使である。基本的に中国では塩の産地が少なく、産地を集中的に監視下に置きやすいという環境があった[229]。産地の種類によって海塩・池塩・井塩・土塩に分けられる。それぞれ海水の塩・塩湖の塩・塩分が多い地下水の塩・塩分が多い土を精製した塩である[229]。各地の塩産地には製塩業者が集められて登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された[230]。
専売制によってかけられる税は莫大で、専売制実施前に1斗が銭10文であったのが実施後には110文になり[231][232]、更に値上げされて唐を通じて250文から300文、もっとも高い時で370文にもなった[232]。そのため貧しくて塩が買えず淡色という味気ない食事しか出来ない者もいたという[233]。
このような高額の官塩に対して私塩と呼ばれる密売塩が出回ることになる。塩製造には厳しい監視が付けられており、私塩の出所は官塩からの横流しが大半を占めていた[231]。私塩に対して唐は厳しい取り締まりを行なったが、私塩業者の方も対抗して武装し、内部での結束を高めるために宗教的な掟を定めるなどしていた。これが後の中国の秘密結社のルーツとなったとされる[234]。このような私塩集団を塩賊と呼び、唐を実質的に滅ぼした黄巣らもまた塩賊出身であった[159][160]。
また茶葉にもはじめの793年に価格の10分の1、821年に増額して5割、835年に更に増税される[235]。と塩に比べればまだ安いものの高額な税がかけられ、塩と同じように茶賊と呼ばれる集団が活動した[234]。
その他の税
商工業に対して、関所などの通行税や市に登録した商人に対する市租などを取っていた[236]。両税法では店構えや家屋などを元に算出した資産額によって課税し、行商人に対しては運搬する商品の30分の1の額を取った[236](翌年に10分の1に増額[237]。)。
軍事
兵制
唐初の兵制は隋から引き継いだ府兵制である。府兵制では全国に折衝府という組織を置く[238][239]。折衝府には地域の農民が登録され、租庸調を免除される代わりに兵役の義務を負う。
府兵の兵役の内容は主に、衛士と呼ばれる首都勤務と、防人と呼ばれる国境警備があった。衛士は府兵は5ヶ月に1回、京師に1ヶ月番上する[240][241]。辺境には鎮・戍という防衛組織があり、府兵は生涯のうちに一度、3年間を防人として努めなければならなかった[240]。また京師の番上や国境警備に出ていない場合に州県へと番上して警備や様々な色役を行った。またそれ以外の時に年三度の訓練を行った[240]。なお衛士・防人共に武器・防具及び駐在中の食料などは全て府兵自身の負担であった[242]。
折衝府は全国に約600が存在しており、そのうちの400程が長安・洛陽周辺に集中していた[240][239]。所属する兵員によって上中下があり、元は上が1000・中が800・下が600であったが、後の武則天の時に増員されて上が1200・中が1000・下が800となっている[240][243]。600×1000=60万が唐の常備兵力ということになる[244][239]。60万の内、10万が衛士・10万が防人に使われており、遠征等に動かせる兵力は40万以下であった[244]。国外遠征などでより兵が必要な場合は臨時の徴兵が行われる。これは兵募と呼ばれるが強制的なもので、折衝府がある無しに関係なく行われた。ただし府兵が全て自弁であったのに対して、兵募の諸物資は官給であった[244][245]。
しかし衛士・防人共にその負担は非常に重いものがあり[246]、兵役拒否などにより府兵制は早期に立ち行かなくなった。首都防衛については北衙禁軍[247]、辺境防衛についても737年に辺境の軍鎮に長期にわたって駐屯する長征健児制が出来る。これらの兵士には国から衣食住が支給され、家族と共に住む場合には田宅も支給された[248]。また従来の鎮戍にも府兵ではなく兵募が務めるようになった。これを丁防・防丁と呼ぶ[248]。
このような変化により、有名無実の存在となった折衝府は749年に廃止され、府兵制は消滅した[248]。
中央軍
唐政府の中央軍である禁軍として、「南衙」と呼ばれる国の正規軍と「北衙」と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛(左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛)は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の儀仗や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった[238]。六率府(左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府)には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった[249]。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する彍騎制を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった[240]。
北衙禁軍は、高祖のときの元従禁軍を元とし[250]、太宗の638年(貞観十二年)に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる[251]。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、高宗の662年(龍朔二年)に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年(開元二重六年)に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった[247]。
安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが神策軍である[122][128]。憲宗のときにこの神策軍を大幅に拡充して15万を数えるようになり、この兵力を基に反則藩鎮の順地化に成功した(#藩鎮との攻防で先述)[252][253]。しかしこの神策軍の拡充の費用に当てられたのが先述の羨余であり、民衆を大いに苦しめることとなった[143][254]。
地方軍・辺境軍
唐初では辺境防衛には、先述した「鎮」や「戍」という拠点が置かれ、ここに府兵が防人として配置され、都護府が統括した。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった[255]。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した[244]。そのため、高宗時代頃から、鎮戍とは別に軍鎮という新たな軍組織が置かれるようになる。こちらも最初は都護府の管轄に置かれていたが、後に節度使がこの役割を担うようになる[244]。710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた[80][256]。
また地方の治安維持として団錬兵・団結兵と呼ばれる新しい兵種が生まれる。元は武則天時代に設置された武騎団という組織が始まりで、契丹の反乱に対処するためのものだった。これが玄宗期に団練兵と呼ばれるようになる。団練兵の兵員はその地方の農民が徴兵されるもので、彼らは普段は農業に従事し、農閑期には訓練を施された[244]。団錬兵の指揮官として団錬使という使職が設けられたが、後に州刺史がこれを兼任するようになる[257]。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた[258]。
安史の乱後は長安・洛陽周辺部を除いた地方はほぼ全てが節度使率いる藩鎮の支配下に入ることとなる。その組織構造については#藩鎮を参照。
政治勢力
科挙官僚と貴族
初唐に権力を握ったのは皇室の李氏を含め関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ[259]。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである[260]。関隴集団は武川鎮軍閥とも呼ばれ、北周以来の支配者集団が貴族化したものである[261]。
関隴集団以外の貴族として漢以来の長い伝統を持つ山東貴族があり、影響力には乏しいが社会的な名望は関隴系よりも上だった[262][263]。太宗は貴族を九等に格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、はじめ山東貴族の崔氏が第一等、皇室の李氏が第三等とされていた[262]。これに怒った太宗は作り直しを命じ、皇室の李氏を第一等・外戚の長孫氏や独孤氏などを第二等、崔氏を三等とした[262]。
五品以上の官品を持つ者(ないし皇族・姻戚)にはその子弟が無条件で官品を得られる権利があった。これを資蔭といい、これによって官僚になった者を任子と呼ぶ[191]。例えば最高の一品官の子であれば正七品上が与えられる[191]。一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、科挙では最高でも正八品上から任官することになり、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった[264]。更に試験に合格したとしてもすぐに任官できるわけではなく、尚書吏部で行われる身・言・書・判[注釈 8]という人物審査に合格して初めて任官することが出来た[265]。この人物審査は貴族的な立ち居振る舞いを求める物であり、科挙の制度の中に貴族の既得権益を守る意図があった[265]。
武則天は権力奪取の過程において長孫無忌などの関隴貴族および伝統的な門閥貴族と対立し、これに対抗するために科挙官僚を優遇して積極的に引き上げた[266]。後の玄宗治世の前半に科挙官僚が中心になって開元の治を導いた[72]。玄宗後半になると関隴系が息を吹きかえし、再び政治上の主導権を握るようになった。その代表と言えるのが活戸政策を主導した宇文融であり、その後に19年の長きにわたって宰相の地位にあった李林甫である。李林甫によって関隴系の優位は確固たるものとなる[83]。
安史の乱の後になると科挙合格者に対する社会的声望が高まり、任子の資格を持つものであっても科挙を受けるものが出てくる[126][267]。9世紀に入ることになると科挙官僚の勢力は貴族勢力と伍するほどになっていた[125]。
そのような中で起きたのが牛李の党争である。任子出身の李徳裕と科挙出身の牛僧孺・李宗閔の両派閥が鋭く対立した(この党争の捉え方に対して種々の意見・議論がある。その内容については牛李の党争の項目を参照)。
その後の乱の続発・藩鎮勢力の復権などの情勢の変化の中で貴族の勢力は大きく衰退し、五代から宋に至る中で貴族勢力は完全に滅びたと考えられる[268]。そして宋では科挙に合格して官僚資格を得た新興地主層が士大夫と呼ばれる新たな支配者集団を形成することとなる[269]。
藩鎮
府兵制が逃戸の増大・兵役拒否などによって立ち行かなくなった[79]ことにより、それまでの徴兵制から募兵制に変更せざるを得なくなった[79][270]。またそれ以前から周辺民族の活動が活発化し、辺境防衛の強化が求められていた[79][271]。
この頃の地方防衛では軍・城・守捉・鎮と呼ばれる軍事組織を各地に配置していた。これらをまとめて軍鎮と呼ぶ[244][272]。軍鎮の長官を軍使といい、軍鎮1つあたり平均して1万、総兵力60万と号していた[150]。これら軍鎮の統括は当初は都護府が行っていたが[244]、後にこれをまとめるために置かれたのが藩鎮であり、その長が節度使である[79][271]。
710年に安西節度使が置かれたのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれた[80][256]。この10の節度使の総兵力は49万・軍馬数は7-8万となり[273][274]となり、唐の中央軍の兵力を大きく上回っていた[274]。この10の節度使のうち、安西(亀茲)・北庭(庭州)・平盧(営州)の3つが万里の長城の外にある長城外節度使であり、他7つが長城内節度使である[273]。長城外節度使には軍人や蕃将(異民族の将軍)が任命され、長城内節度使にはもっぱら高級文官が就いた[273][275]。長城内節度使は宰相へのエリートコースとされ[273]、玄宗即位から李林甫登場までの25人の宰相の内、節度使から宰相になった者が14人いる[276]。李林甫がこのコースを潰すために長城内節度使にも軍人・蕃将を任命するようにし、それが安禄山の出世・さらに結果として安史の乱に繋がることになる[273]。
安史の乱を平定するに当たり、それまで設置していなかった内地にも藩鎮を設置するようになる[273][112]。また安史軍の幹部であった李宝臣・李懐仙・田承嗣の三人をそれぞれ成徳軍・盧龍軍・天雄軍の節度使に封じることで懐柔し、乱を収めた[277][278]。こうして9世紀半ばには全国に4-50の藩鎮が置かれ[80][112]、長安・洛陽の二都が所属する京兆府・河南府を除くすべての地域がいずれかの藩鎮の支配地域となった[80][112]。
藩鎮はそれまでは軍権だけを持つものであったが、乱後は観察使を兼任することで行政権も握るようになる[80][279]。江南地域では節度使は置かれず、観察使が防御使などの軍事職を兼任することでこちらも行政・軍事権を握った[80]。これにより唐の地方体制はそれまでの中央→州→県という3段階から中央→藩鎮→州→県という4段階へと変化したと言える[208]。
藩鎮の内、唐政府に対して反抗的な藩鎮を反則(藩鎮、の地)、対して比較的従順な藩鎮を順地と呼んだ[80][113]。先に挙げた成徳・盧龍・天雄の3者が反則の典型で、これを河北三鎮と呼ぶ[277][113]。反則藩鎮では政府に収めるべき上供も送られないことが多く、領内での徴税・官吏や兵士の任命などを勝手に行い、半独立した状態となった[277][113]。
藩鎮の領内の内、節度使の府(幕府)である使府が置かれている州を使府州(または会府)といい[280][279]、節度使自身がこの州の長官たる刺史を兼ねる[279]。そしてここに常駐している軍を牙軍・牙中軍といい、藩鎮兵力の中核をなす[280][281]。また領内の要所に軍鎮が配置されて守備にあたる。これを外鎮軍・牙外軍という[280][281]。藩鎮は平均して5-6州をその領内に持つが[279]、使府州以外の州は巡属州(または支郡)などと呼ばれ[280][208]、それぞれの州刺史が防御使などの軍事職を兼任して州ごとに軍を持って治安維持に当たる[280]。これらの兵士は全て傭兵であり、官費で養われる[280]。またこれらとは別に家兵などと呼ばれる節度使の私軍を抱えることが多い[280][282]。これら家兵は節度使と仮父子関係[注釈 2]を結ぶことで個人的紐帯を強くした[280][282]。
藩鎮の中核を為す支配機関が使院と呼ばれる機関で、ここに所属する官を幕職官という[265][208]。この幕職官は辟召により、藩鎮が独自に任命し、中央はそれを後で追認するだけであった[265]。この幕職官の主な供給源となったのが科挙落第者である。科挙に合格することは非常に困難であり、毎年数百人の落第者が生まれていた[265]。落第者とはいえ知識人であり、有用な人材である彼らを辟召によって藩鎮が吸収していった[283][284]。
このような構造を持つ藩鎮だが、その長たる藩帥(節度使・観察使)の地位は必ずしも安定したものではなかった。牙軍の兵士は自らの待遇問題に敏感で、これが十分ではない場合は不満を抱いて兵乱を起こすこともあった[285]。最悪の場合は藩帥を追放・殺害してすげ替えるといった事態に発展する[280][285]。前述の家兵も、反抗的な牙軍に対して自衛のために個人的忠誠心の強い部隊が必要とされたものである[280][282]。
820年に即位した憲宗は各反則藩鎮を武力で討伐してこれらを順地とすることに成功した[123]。これと並行して順属州の兵権と税収を節度使から取り上げ[109][286]、さらに節度使を中央から派遣される高級文官が就くこととし[109][287]、任期も数年で交代するようにした[109]。これにより藩鎮の勢力は大幅に減少し、唐はある程度中央集権を回復することに成功した[109][287]。ただし河北三鎮は一旦順地化した後に再び反則となった[109][287]。
黄巣の乱が起きると乱の中で成り上がってきた朱全忠・李克用らが節度使の職を帯びて、藩鎮勢力が再び形成される[288]。しかしこの唐末の藩鎮とかつての反則藩鎮とは決定的に違う部分がある。反則藩鎮は財政基盤が弱く、大量の兵士を養うためには中央からの官費が不可欠であって、唐に対して反抗的ではあっても唐と分離して存続できない存在であった[280][289]。これに対して黄巣の乱後の唐は一地方政権に堕しており[175]、藩鎮は完全に自立した存在となった[290]。
藩鎮間の抗争と統合が行われ、唐も907年に滅ぼされる[173]。この後の五代政権の創業者はほとんどが節度使から皇帝となっており[291]、五代政権自体が唐の藩鎮の性格を色濃く受け継いだものと言える[292][291]。
宦官
唐は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている[268]。
六省の一つ内侍省が後宮の管理を行う部署である[195][293]。長官は内侍監(正三品)[294]。
唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である[129][243]。高力士は皇太子時代から玄宗に仕え、太平公主討伐などに功績を挙げて、玄宗の信頼を勝ち取るに至った[294]。玄宗が皇太子を立てる際に高力士は忠王李璵(後の粛宗)を推薦し、玄宗はこの意見に従っている[90]。このように玄宗からの信頼は非常に厚いものがあったが、玄宗退位後に粛宗を補佐して権勢を握ったこれも宦官の李輔国から誣告を受けて失脚している[295]。
高力士までは宦官はあくまで皇帝の影の存在だったが、先に挙げた李輔国のころから宦官が表舞台に現れてくるようになる[129]。さらに代宗のときの程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭以後、宦官の存在は唐の中で大きな位置を占めるようになる[296]。安史の乱により唐の南北禁軍(中央軍を参照)は壊滅しており[129][128]、これに代わって神策軍を代表とする北衙禁軍が再構成される[129][128]。神策軍の司令官には代々宦官が任じられることになり[229]、宦官勢力が大きな兵力を握ることとなった[229][128]。この北衙禁軍により唐は藩鎮勢力の討伐に成功し、このことで宦官の勢力は増大する[229]。さらに藩鎮に対して宦官が監軍として監察に当たるようになり[129][297]、また新たに設置された枢密使が宦官の任命されて皇帝と宰相との連絡役とされる[297]など、もはや宦官は宮中の中だけの存在ではなくなった[297]。
ここに至って宦官は皇帝の廃立すら決めるようになった[129][130]。12代穆宗から19代昭宗までの8人の皇帝のうち宦官に擁立されなかったのは13代敬宗だけであり、その敬宗も在位2年で宦官に殺されている[129][130]。皇帝を擁立した宦官は定策国老と呼ばれ、擁立された皇帝は門生天子(皇帝を科挙の受験者に見立てている)とまで呼ばれた[130]。この状態に対して14代文宗は宦官を誅滅しようとし、宰相李訓・鳳翔節度使の鄭注と共に宦官殺害の策を練る。835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし直前に情報が宦官側に漏れて計画は失敗、李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ[129][132]。
強大な権力を持つ宦官に対して、官僚側も接近し、牛李の党争の際には双方の党が宦官の力を借りて政敵を追い落としている[131][298]。
このように権勢を振るった宦官であったが、その権勢の源はあくまで皇帝にあり、皇帝と離れては権勢を保ち得ない存在であった[158][130]。黄巣の乱の後、唐が大幅にその力を減じ、一地方政権となった後でも官僚・宦官等による宮廷内での権力争いは続けられていたが、それも藩鎮軍閥勢力による代理戦争に過ぎず[176]、現実になんら影響を及ぼすものではなかった[299]。
903年、朱全忠は宮中にて数百人の宦官を皆殺しにした[176][178]。中央における有利を確立した朱全忠にとってはもはや宦官に利用価値は残っていなかった[177]。そして4年後の907年に唐自体が滅亡することとなる[177]。
注釈
- ^ 三男の李玄覇は早世している[22]。
- ^ a b 仮父子というのは義理の親子関係であるが、家を継がせるための養子とは違う[95]。仮の父子関係を結ぶことで紐帯を強くして主従関係を強固にするためのもので、唐及び五代の節度使の組織の中でよく見られるものである[96][95]。
- ^ 憲宗は820年に死去しており、成徳・盧龍を討伐したのは後を継いだ穆宗である[109][124]
- ^ なおこの党争の原因・実態などに関しては非常に多くの議論がある。詳しくは牛李の党争の記事を参照。
- ^ この時に活躍した沙陀族の長が朱邪赤心で、この功績により国姓の李を授けられて李国昌を名乗る。後唐太祖李克用の父親である[156][157]。
- ^ 塩賊の茶バージョン。茶には塩ほどではないが、高額の税がかけられていたので、それを回避する私茶が横行、これを取り扱う私茶業者を茶賊と呼んだ[161]。
- ^ 他人の土地を耕作して小作料を納める小作人の戸
- ^ 身は身体風貌、言は言辞がそれぞれ卑でないか。書は筆跡、判は模擬的に四六文で判決文を作らせること[265]。
- ^ 絹馬交易についてはウイグルが優位な立場を背景に質・価格とも問題があり、更には必要以上の馬数を売りつけようとしたので、唐は支払いに苦しんでいたとされている[337]。しかし実際には価格は適正なものであり、唐が支払いに苦しんだのは唐の財政事情によるという見解がある[338]。
- ^ 書き下しは宇野2005 P167に依る。
- ^ 書き下しは宇野2005 P171に依る。
- ^ 書き下しは宇野2005 P148に依る。
- ^ 書き下しは宇野2005 P156に依る。
- ^ 書き下しは宇野2005 P202に依る。
- ^ 書き下しは宇野2005 P206-207に依る。
- ^ 書き下しは池田1996b P537に依る。
- ^ 書き下しは宇野2005 PP238-239に依る。
- ^ 日本への影響を直後の承平天慶の乱の発生は唐滅亡後の混乱や変革とは直接的な関係はなく、むしろ200年以上遅れる形で平氏政権の成立に影響を与えたとする理解もある[389]
- ^ 即位後わずか54日で廃位された。
- ^ 「曌」は「照」の則天文字。
- ^ 705年、中宗に譲位して唐が復活。武周は一代15年で終わった。
- ^ 中宗に代わり韋皇后によって皇帝に擁立されたが1ヶ月で睿宗に譲位させられた。
- ^ 病気が元で即位後7ヶ月で譲位。
- ^ 宦官勢力によって父・昭宗が失脚させられた際に皇帝として擁立されたが、2ヶ月足らずで昭宗が返り咲いたため李裕の即位の事実は否定された。通例として歴代皇帝には数えられていない。
出典
- ^ Turchin, Peter; Adams, Jonathan M.; Hall, Thomas D (December 2006). “East-West Orientation of Historical Empires”. Journal of world-systems research 12 (2): 222. ISSN 1076-156X .
- ^ Taagepera, Rein (1997). “Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia”. International Studies Quarterly 41 (3): 475–504. doi:10.1111/0020-8833.00053. JSTOR 2600793. p. 492.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 285.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 285–287.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 287–289.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 288–289.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 289–290.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 378.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 293.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 294–295.
- ^ 氣賀澤 2005, pp. 57–58.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 299.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 298.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 58.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 72.
- ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 67.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 311–312.
- ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 312.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 66.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 73.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 74.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 68.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 69.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 71.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 77.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 319.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 79.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 326.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 76.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 327.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 322.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 80.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 80.
- ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 328.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 101.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 128.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, pp. 101–102.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 321.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 107.
- ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 82.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 320–321.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 120.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 88.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 320.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 331.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 331–332.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 111–112.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 332.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 114-115.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 119.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 328–329.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 84.
- ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 329.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 123-124.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 333.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 128.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 88.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 334.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 290.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 146.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 333–334.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 335.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 132.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 339.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 135.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 340.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 136.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 343.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 90.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 344.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 143.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 345.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 147.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 147-148.
- ^ 氣賀澤 2005, pp. 379–380.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 394.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 244.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 395.
- ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 447.
- ^ a b c d e f g h i j k 窪添 et al. 1996, p. 449.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 161–162.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 92.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 346.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 158.
- ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 347.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 156.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 162.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 161.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 348.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 155.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 165–166.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 349.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 353.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 294.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 295.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 353–354.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 299.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 298.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 354.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 301–302.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 302.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 355–356.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 304.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 356.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 305.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 306.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 357.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 445-447.
- ^ a b c d e f g h i j k l 窪添 et al. 1996, p. 459.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 446.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 460-461.
- ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 343.
- ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 350.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 454.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 455.
- ^ a b c d e f g h 窪添 et al. 1996, p. 489.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 333.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 489–490.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 490.
- ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 499.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 456.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 457.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 457–459.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 118.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 472.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 471.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 473.
- ^ a b c d e 布目 & 栗原 1997, p. 370.
- ^ a b c d e f g h i j k l 窪添 et al. 1996, p. 475.
- ^ a b c d e f 布目 & 栗原 1997, p. 392.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 475–476.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 393.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 528.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 404.
- ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 286.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 402.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 529.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 403.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 527–528.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 403–404.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 462.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 410.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 463.
- ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 411.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 465.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 413.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 465–466.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 420.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 422.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 466.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 468.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 425–426.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 427.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 470.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 133.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 413.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 456.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 476.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 477.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 436.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 461.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 478.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 437.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 480.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 438.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 439.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 481.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 441.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 482.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 441–442.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 442.
- ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 483.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 484.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 447.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, pp. 452–453.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 485.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 486.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 137.
- ^ 愛宕 et al. 1997, p. 12.
- ^ 愛宕 et al. 1997, pp. 3–4.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 365.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 365–366.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 366.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 187.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 194–195.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 201–202.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 487.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 182.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 368.
- ^ a b c 氣賀澤 2005, p. 144.
- ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 369.
- ^ 氣賀澤 2005, pp. 144–146.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 371.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 375.
- ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 376.
- ^ 氣賀澤 2005, pp. 146–147.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 444–448.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 444.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 445.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 444–445.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 488.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, p. 377.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 378.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 378-379.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 379.
- ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 381.
- ^ 氣賀澤 2005, pp. 150.
- ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 346.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 548.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 502.
- ^ a b c d 窪添 et al. 1996, pp. 385–386.
- ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 195.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, pp. 195–196.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 196.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 385.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 388.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 200–201.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 390-392.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 196-198.
- ^ 氣賀澤 1994, pp. 131–132.
- ^ 氣賀澤 1994, pp. 134–135.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 389.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 244–245.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 394–395.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 153.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 313.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 492.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 329–330.
- ^ a b c d e 窪添 et al. 1996, p. 495.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 322.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 460.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, pp. 322–323.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 323.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 460–461.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 430–431.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 334.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 337.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 404.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 202.
- ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 405.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 204.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 259.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997.
- ^ a b c d e f g h 窪添 et al. 1996, p. 406.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 203.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 408.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 409.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 407.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 404–405.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 271.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 408-409.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 457-459.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 371-374.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 371.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 274.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 286-287.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 263–264.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 264.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 308–309.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 309.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 308–310.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 324.
- ^ 宮崎 1997, p. 83.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 372.
- ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 452.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 334–335.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 389.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, p. 474.
- ^ 愛宕 et al. 1997, p. 117.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 283.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 285.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 278.
- ^ a b c d e f 窪添 et al. 1996, p. 448.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 288.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 288–289.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 292.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 450.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 348.
- ^ a b c d 布目 & 栗原 1997, p. 345.
- ^ a b c d e f g h i j k 窪添 et al. 1996, p. 451.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 361.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 362.
- ^ 窪添 et al. 1996, pp. 452–453.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 386-387.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 360.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 374–376.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 379.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 450-451.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 451.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 451–452.
- ^ a b 愛宕 et al. 1997, p. 25.
- ^ 愛宕 et al. 1997, p. 6.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 148.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 149.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 149–150.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 121.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 391.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 392–393.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 461.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 327–328.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 328.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 500.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 328–329.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 329.
- ^ 窪添 et al. 1996.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 501-502.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 227.
- ^ a b c d e f g 窪添 et al. 1996, p. 504.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 209.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 209.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 209–210.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 210.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 215.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 214.
- ^ 氣賀澤 2005, pp. 215–216.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 213.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 330–331.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 331.
- ^ 宮澤 2007, p. 144.
- ^ 宮澤 2007, p. 145.
- ^ 宮澤 2007, p. 146.
- ^ 宮澤 2007, p. 147.
- ^ 宮澤 2007, p. 149.
- ^ 宮澤 2007, p. 150.
- ^ a b 宮澤 2007, p. 155.
- ^ a b 宮澤 2007, p. 166.
- ^ a b c 丸橋 2013, p. 108.
- ^ 丸橋 2013, p. 117.
- ^ 丸橋 2013, p. 106.
- ^ 愛宕 1996a, p. 346.
- ^ a b 愛宕 1996a, p. 446.
- ^ 愛宕 1996a, p. 445.
- ^ 金子 1996, p. 493.
- ^ 森部 2023, p. 216.
- ^ 愛宕 1996a, p. 447.
- ^ a b 丸橋 2013, p. 115.
- ^ a b c 金子 1996b, p. 508.
- ^ 齋藤勝「唐・回鶻絹馬交易再考」『史学雑誌』第108巻第10号、史学会、1999年、33頁。
- ^ a b 丸橋 2013, p. 107.
- ^ a b 金子 1996b, p. 510.
- ^ a b c 愛宕 1996b, p. 481.
- ^ a b c 宇野 2005, p. 119.
- ^ a b c 池田 1996a, p. 427.
- ^ a b c d 池田 1996, p. 427.
- ^ 宇野 2005, p. 121.
- ^ a b c 布目 & 栗原 1997, p. 231.
- ^ 宇野 2005, p. 123.
- ^ a b 宇野 2005, p. 127.
- ^ 宇野 2005, pp. 127–128.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 231–232.
- ^ 宇野 2005, p. 128.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 232.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 339.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 233.
- ^ 宇野 2005, p. 137.
- ^ 宇野 2005, p. 141.
- ^ 宇野 2005, pp. 159–165.
- ^ 宇野 2005, p. 166.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 237.
- ^ 宇野 2005, pp. 171–175.
- ^ 宇野 2005, p. 175.
- ^ 宇野 2005, pp. 148–149.
- ^ 宇野 2005, p. 152.
- ^ 宇野 2005, pp. 152–156.
- ^ a b 池田 1996b, p. 529.
- ^ 宇野 2005, pp. 195–196.
- ^ 宇野 2005, p. 197.
- ^ 宇野 2005, p. 206.
- ^ 宇野 2005, pp. 205–206.
- ^ 宇野 2005, p. 229.
- ^ 宇野 2005, p. 231.
- ^ 宇野 2005, p. 232-233.
- ^ 宇野 2005, p. 235.
- ^ 池田 1996a, p. 423.
- ^ 池田 1996a, pp. 423–425.
- ^ 池田 1996a, p. 426.
- ^ 池田 1996a, p. 416.
- ^ 池田 1996a, p. 526.
- ^ 池田 1996b, p. 523-525.
- ^ a b 池田 1996a, p. 437.
- ^ 池田 1996b, pp. 540–541.
- ^ 源川 2002, p. 123.
- ^ 源川 2002, p. 132.
- ^ 源川 2002, p. 127.
- ^ 池田 1996a, p. 439.
- ^ 池田 1996b, p. 439.
- ^ 池田 1996b, p. 543.
- ^ a b 窪添 et al. 1996, pp. 326–327.
- ^ 榎本 1998.
- ^ 窪添 et al. 1996, p. 302.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 60.
- ^ a b c 窪添 et al. 1996, p. 317.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 142.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 310.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 311.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 312.
- ^ 愛宕 et al. 1997, pp. 390–391.
- ^ 氣賀澤 2005, p. 313.
- ^ 愛宕 et al. 1997, p. 391.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 176p-177.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 174.
- ^ a b 氣賀澤 2005, p. 321.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 175.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 100.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 137.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 138.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 169.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 103.
- ^ 布目 & 栗原 1997, p. 140.
- ^ a b 布目 & 栗原 1997, p. 172.
- ^ 布目 & 栗原 1997, pp. 394–395.
唐と同じ種類の言葉
「唐」に関係したコラム
-
CFDで取り扱う株式には、日経平均株価(日経225)採用銘柄をはじめ、アメリカ合衆国、欧州圏、中国などの証券市場に上場している銘柄があります。CFDで取り扱われている株式はCFD業者によりさまざまで、...
- >> 「唐」を含む用語の索引
- 唐のページへのリンク