李懐仙とは? わかりやすく解説

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李懐仙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 09:50 UTC 版)

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李 懐仙(り かいせん、? - 768年)は、中国節度使河朔三鎮の一つであった盧龍軍を率いた。柳城(現在の遼寧省朝陽市朝陽県一帯)の胡人

略歴

代々契丹に仕えて営州を守っていたという[1]。騎射が得意で智謀に優れ、機敏であったとも言われている[2]。李の姓は皇帝粛宗から唐室の姓を与えられたものである[3]

安史の乱の際には安禄山の裨将軍となり、河洛を陥れている。その後、安慶緒史思明史朝義に仕え、「燕京留守范陽尹」を授けられている[1]

代宗宝応元年(762年)、史朝義軍が唐の官軍に降服すると、翌年李懐仙は史朝義を斬首して唐に帰順する[2]。この時、当時私党をたてようとしていた僕固懐恩によって推挙され、「幽州大都督府長史・検校侍中・幽州盧龍等軍節度使」を授けられたが、朝命に服することなく薛嵩・田承嗣李宝臣らとともに河朔の地を分割統治した[1]。僕固懐恩の謀叛により、西蕃の入寇があった際には朝廷の事故が多くなり、懐仙はこれに乗じてほかの3将とともに散亡を招集し、城邑甲兵をおさめ、部下数万人を擁立し、文武将史を思いのままにして署置(人を官職におくこと)し、貢賦を私物化し、朝廷の藩臣を称しつつ、実際は独立し、幽州・涿州・営州・平州薊州檀州嬀州などの諸州を領有した。

しかし、大暦3年(768年)、その麾下にある兵馬使の朱希彩朱泚・朱滔によって家族もろともみな殺しにされた[2]

脚注

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  1. ^ a b c 『アジア歴史事典9』p184
  2. ^ a b c 『縮刷東洋歴史大辞典』下巻p908
  3. ^ 『中国の歴史 第4巻隋唐帝国』p319

伝記史料

  • 旧唐書』巻143 列伝第九十三 李懐仙
  • 新唐書』巻212 列伝第一百三十七 李懐仙

参考文献

  • 『縮刷東洋歴史大辞典』下巻(臨川書店)p908、1986年(平凡社、1938年の復刻版)
  • 松永雅生『李懐仙」(『アジア歴史事典 9』p184、(平凡社、1960年))
  • 『中国の歴史 第4巻隋唐帝国』布目潮渢栗原益男著、講談社、1974年



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