中国国分
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脚注
参考文献
- 熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社、1992年4月。ISBN 4-08-195011-3
- 池上裕子・池享・小和田哲男・小林清治・峰岸純夫ら編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月。ISBN 4-06-206016-7
- 日置粂左ヱ門「4章 戦国乱世の因伯」『鳥取県の歴史』山川出版社<県史31>、1997年2月。ISBN 4-634-32310-9
- 水本邦彦「7章 在郷世界と藩体制」『京都府の歴史』山川出版社<県史26>、1999年8月。ISBN 4-634-32260-9
- 河合秀郎「西軍決起の謎」『決戦 関ヶ原』学習研究社、2000年1月。ISBN 4-05-602209-7
- 竹林栄一「6章 宇喜多氏の統一事業」『岡山県の歴史』山川出版社<県史33>、2000年6月。ISBN 4-634-32330-3
- 池上裕子『織豊政権と江戸幕府』講談社<日本の歴史15>、2002年1月。ISBN 4-06-268915-4
- 中野等「『唐入り』と兵站補給体制」池享編『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館、2003年6月。ISBN 4-642-00813-6
- 池享「天下統一と朝鮮侵略」『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館、2003年6月。ISBN 4-642-00813-6
- 久保田昌希監修『決定版 図説・戦国地図帳』学習研究社、2003年7月。ISBN 4-05-602641-6
- 内田九州男「5章-1 伊予の近世化」児玉幸多監修『愛媛県の歴史』山川出版社<県史38>、2003年8月。ISBN 4-634-32380-X
- 藤田達生『謎とき 本能寺の変』講談社<講談社現代新書>、2003年10月。ISBN 4-06-149685-9
- 今井修平・三浦俊明「6章 近世社会の成立」『兵庫県の歴史』山川出版社<県史28>、2004年8月。ISBN 4-634-32280-3
- 光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会<NHKブックス>、2009年7月。ISBN 978-4-14-091138-9
関連項目
注釈
- ^ 本能寺の変後の和睦条件は、当初織田氏方が要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲の5か国割譲に代えて、備後・出雲をのぞく備中・美作・伯耆の3か国の割譲と高松城(岡山県岡山市北区)の城主清水宗治の切腹というものであった。
- ^ 毛利家中で秀吉の信任が最も厚かった小早川隆景は、四国攻めののちの四国国分で伊予一国35万石をあたえられて秀吉の直臣大名として取り立てられ[13]、さらに九州征伐後の九州国分では、筑前国・筑後国および肥前国一部の計37万石に加増された。九州転封後の隆景は、筑前名島城(福岡県福岡市東区)を本拠とした。
- ^ しかし、その直後に養父にあたる小早川隆景が隠居して、家臣団とともに安芸三原(広島県三原市)に移ったため、秀秋はその後を継いで筑前名島の城主となった。なお、隆景はその際、秀吉から筑前国内に5万石という破格の隠居料を拝領している。
- ^ 四国攻めののち、蜂須賀正勝の子蜂須賀家政が阿波国徳島城(徳島県徳島市)18万石、九州征伐ののち黒田孝高は豊前国中津城(大分県中津市)17万石、浅野長政は若狭国小浜城(福井県小浜市)8万石の大名となった。
出典
- ^ 熱田『天下一統』(1992)p.201
- ^ a b 熱田『天下一統』(1992)p.202-203
- ^ 熱田『天下一統』(1992)p.204
- ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.137
- ^ a b 竹林『岡山県の歴史』(2003)p.172
- ^ a b c d 日置『鳥取県の歴史』(1997)p.140
- ^ 藤田『謎とき 本能寺の変』(2003)p.161-162
- ^ 太閤検地石高(『日本賦税』『当代記』など。徳川旧領5か国、信濃は上杉領の川中島4郡を除く)。
- ^ 豊臣家において石田ら子飼い家臣と、秀勝・秀保ら一門の石高は蔵入地222万石とは別のため、豊臣家勢力は徳川を凌駕している。
- ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
- ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
- ^ 池「天下統一と朝鮮侵略」(2003)p.76-77
- ^ 内田(2003)『愛媛県の歴史』p.153
- ^ 仮里屋(赤穂)6万石の生駒親正が讃岐へ転封された事による。
- ^ 竹林『岡山県の歴史』(2003)p.175-176
- ^ a b 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.179
- ^ a b 水本『京都府の歴史』(1999)p.218-219
- ^ a b c 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.180-p.181
- ^ a b 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.180
- ^ 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.179-p.180
- ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.142
- ^ 光成『関ヶ原前夜』(2009)p.189-192
- ^ 熱田『天下一統』(1992)p.286 および『決定版 図説・戦国地図帳』(2003)p.126 より作表
- ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.158
- ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.342
- ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.343
- ^ a b 河合「西軍決起の謎」(2000)p.170-171
- ^ a b 光成『関ヶ原前夜』(2009)p.51-62
- ^ 周防国も含む(一城令で岩国城を破却。幕末に政庁を山口に移す。)
- ^ 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の『毛利家御前帳』にも同様の石高が記載。 慶長18年(1613年)、36万9千石に高直し。
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