播磨・淡路
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播磨は、中国攻めに際しては司令官である秀吉の本拠地となったところから、早い段階より配下の武将に対し所領が分与されていた。三木合戦後の三木城には前野長康が知行高3万1,000石で入部し、天正8年(1580年)には揖東郡福井庄6,200石、同郡岩見庄2,700石、同郡伊勢村1,000石などが黒田孝高にあたえられた。天正9年(1581年)、蜂須賀正勝を播磨龍野城(兵庫県たつの市)5万3,000石に取り立て、浅野長政には揖東郡小宅庄・堂本村など5,600石があたえられ、黒田孝高には揖東郡より1万石が加増された。 天正13年、四国平定戦の功をみとめられた淡路洲本の仙石秀久は四国国分によって讃岐国高松城(香川県高松市)10万石に転封となったため、脇坂安治が洲本3万石の領主として淡路に入部した。 天正14年(1586年)には、生駒親正に播磨赤穂城(兵庫県赤穂市)6万石、加藤嘉明には淡路志知城(兵庫県南あわじ市)1万5,000石があたえられた。のちに生駒親正は仙石秀久に替わって讃岐に、加藤嘉明は伊予に転封となった。 天正15年(1587年)、秀吉正室北政所(おね)の兄木下家定に、播磨国の加西郡、印南郡、揖東郡ほか1万1,000石余があてがわれた。その後、家定は文禄4年(1595年)に姫路城(兵庫県姫路市)に入城し、石高も播磨6郡2万1,000石余に加増された。 文禄3年(1594年)6月、小出吉政が、蜂須賀正勝の居城であった龍野城に2万1,000余石をあたえられたが、上述のとおり、翌文禄4年には但馬出石城に加増転封となった。文禄3年、糟屋武則に加古川城(兵庫県加古川市)1万2,000石が、木下家定三男の木下延俊(小早川秀秋の実兄)に播磨国内2万5,000石、木下延重には同国内2万石があたえられ、播磨はしだいに北政所(高台院)の生家木下氏(杉原氏)の分国のような様相を呈した。
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