最盛期とは? わかりやすく解説

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さいせい‐き【最盛期】

読み方:さいせいき

勢い最盛時期全盛期。「貴族文化の—」

果物野菜などの出さかり時期。「リンゴの—」


最盛期(1999年~2000年頃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 02:28 UTC 版)

CardWirth」の記事における「最盛期(1999年2000年頃)」の解説

メディアでCardWirth取り上げられる機会多くなったこの頃当時インターネット事情とも相まってユーザー総数一気増加しそれに伴いユーザー作成したシナリオ登録数急速に増加した。「Adventurer's GUILD」には大量シナリオ登録されるようになり、実力派呼ばれるうになるシナリオ作者達も多く現れた。その一方で、「Adventurer's GUILD」に投稿されシナリオ完成度には大きな開きができ、まさに玉石混交といった様となり混迷極めたまた、あまりの投稿数の増加にgroupAskによる手作業での登録作業では追いつかなくなり一時は「Adventurer's GUILD」が機能しなくなるなどの弊害見られた。(その後公式サイト移転同時に「Adventurer's GUILD」をはじめとするユーザー情報の登録作業はすべて半自動化された) この頃CardWirth取り扱うユーザーズサイトも次々開設されオフ会などの動き含めユーザー間による交流が最も多く見られ時期でもあった。

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最盛期(9世紀 - 11世紀前半)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)

東ローマ帝国」の記事における「最盛期(9世紀 - 11世紀前半)」の解説

マケドニア王朝 (東ローマ)」および「ルーシ・ビザンツ戦争」も参照 9世紀になると国力回復させ、バシレイオス1世開いたマケドニア王朝867年 - 1057年)の時代には政治・経済軍事文化の面で発展遂げようになった一方東ローマ皇帝ローマ教皇対立フィリオクェ問題きっかけとして再び顕在化した。867年アモリア王朝最後の皇帝となるミカエル3世在位:838年-867年主宰教会会議ローマ教皇ニコラウス1世破門する至ったフォティオス分離英語版)」などによって、東西教会亀裂深まり事実上分裂する事となった。。 政治面では中央集権皇帝専制による政治体制確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域回復進め東欧地域へのキリスト教布教積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化復興進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。 10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカスヨハネス1世ツィミスケスバシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土征服して東ローマ帝国東地中海大帝国として復活東西交易ルート要衝にあったコンスタンティノープル人口30国際的大都市として繁栄をとげた。

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最盛期 (1967年-1972年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:59 UTC 版)

キンクス」の記事における「最盛期 (1967年-1972年)」の解説

続くシングルウォータールー・サンセット」は1967年5月リリースされた。この歌詞は、物憂げ観察者ウォータールー駅出会った一組恋人達を眺めている様子描写している。この曲は当時の映画俳優テレンス・スタンプジュリー・クリスティロマンスインスパイアされたものだと噂された。レイ自叙伝の中でこれを否定し2008年インタビューでは「それはボーイフレンドと共に新世界旅立つ僕の姉に関するファンタジーで、彼女ら他国海外移住するつもりだった。」と語っている。複雑なアレンジメントにもかかわらず、「ウォータールー・サンセット」のセッションはほんの10時間で完了したデイヴは後に「僕ら違ったギターの音を得るために、もっと面白フィーリングを得るためにたくさんの時間費やした結局僕らはテープ・ディレイによるエコー使ったが、1950年代以来誰もそれを使用していなかったから、それは新しく聴こえた。僕はスモール・フェイセススティーヴ・マリオットがやってきてどうやってその音を得たのか尋ねたのか覚えている。僕らはしばらくトレンディになったのさ。」と語っている。この曲はキンクスイギリスにおける最大ヒットメロディ・メイカー2位)の一つであり、彼らの最も人気高くよく知られた曲となった音楽ジャーナリストのロバート・クリストゴー(英語版)はこの曲を「最も美し英語の歌」と呼んだオールミュージック編集長、スティーヴン・トーマス・アールワインは「おそらくロックンロール時代の最も美しい歌」にこの曲を挙げた1967年アルバムサムシング・エルス収録曲は『フェイス・トゥ・フェイス』に比べる音楽的に発展しバンドサウンドにはミュージックホール影響見られるようになったデイヴ収録曲道化師の死」でイギリスにおけるチャート上の成功得た。同曲はレイとの共作キンクスと共に録音したが、デイヴソロシングルとしてリリースされた。しかしながら全体的に見てアルバムの売り上げ期待外れであり、ニューシングル「オータム・オルマナック」のリリース急がれることとなり、10月前半リリースされた。「ミスター・プレザント」に次いでリリースされた「オータム・オルマナック」はすぐにトップ5のヒットとなった。アンディ・ミラーは成功したにもかかわらず、同シングルバンド経歴における転機になった指摘する。同曲は続く3年間における最後イギリスでのトップ10ヒットであった。「振り返ってみれば、『オータム・オルマナック』はキンクス問題最初ヒント示していた。この荘厳なシングル - イギリス60年代ポップス最大級実績一つ - は、以前デイヴィス作品と同様すぎると当時広く批評された。」メロディ・メイカー誌のニック・ジョーンズは「これはレイ灰色郊外居住者が営む彼らのかなり理知的な毎日の生活に関する曲を書くのをやめた時なのか?...レイフィーリングではなく公式で作曲している。そして、かなり退屈になっている。」と尋ねたDJのマイク・アハーンはこの曲を「たくさんの古いゴミ」と呼んだデイヴ第2弾ソロシングル『スザンナズ・スティル・アライヴ』は11月24日イギリスリリースされた。売り上げ控えめ見て59,000であったが、トップ10達しなかった。ミラーは「年末までにキンクス急速にファッションから取り残されていった。」と述べた。 「『ワンダーボーイ』がヒットシングルのようには聞こえなかったので、皆は慌てていた。マネージャーエージェントのダニー・デテッシュの間には、バンドはもう長くないという感覚確実にあった。...レコード飛んでいるバックステージにやってきたダニーは『さて、君らはよくやってきた。よく楽しんでるよ。』と言った。まるで僕らにとってそれが終わっているかのように。」 -レイ・デイヴィス1960年代バンド人気低落時、『ワンダーボーイ』とキャバレー・ツアー 1968年早くからバンドライヴツアー取りやめ、代わりにスタジオでのレコーディング焦点合わせたバンドには自らの作品プロモートする材料がほとんど無くその後リリースはほとんど成功しなかった。次のシングルワンダーボーイ』は1968年春にリリースされたが、36位で失速しバンドにとってイギリストップ20達しなかった最初シングルとなったそれにもかかわらずビートルズジョン・レノンはこの曲をお気に入りとした。レイによれば誰かがクラブジョン・レノン見かけDJに『ワンダーボーイ』をかけ続けるよう頼み続けた。」しかしながらバンド自身のこの曲に対す評価は低い。ピート・クウェイフは後に「(僕は)それが嫌いだった...それはものすごかった。」キンクス人気低下直面しながらも、レイ商業的ヒット起こし続けるための莫大需要反する、自身深く個人的な作詞作曲スタイル追求し続けバンドレイが「ヴィレッジ・グリーン」と呼ぶゆっくり展開しているプロジェクト集中しスタジオ時間をささげ続けていた。バンド商業的地位回復させる試みとしてマネージャー4月一ヶ月間のパッケージツアー企画しスタジオからバンド引き出そうとした。会場は主にキャバレークラブであったヘッドライナーピーター・フランプトンバンドハードであった。「一般的に、ティーニーボッパー(英語版)達は古くて退屈なキンクスを見に来たのでは無く彼女ら我慢しながら『ウィー・ウォント・ザ・ハード!』のコールを、キンクスの短い演奏時間中に続けていた。」とアンディ・ミラーは論評したツアー過酷ストレスの多いものであった。ピート・クウェイフは「それは非常に無味乾燥で、退屈で単純な雑役だった。...僕ら20分だけの演奏時間であったが、ステージ立って3連符何度も何度も演奏し、それは僕を半狂乱にした。」と回想している。6月末にキンクスシングルデイズ」をリリースしつかの間復活果たしたレイは「僕はその曲をフォーティス・グリーンで最初に演奏し、それを録音したのを覚えている。」と語っている。「僕はローディーブライアンと、彼の奥さん2人の娘とそれを演奏した。彼らは曲の終わり泣いていた。ウォータールー行って日没見たように本当に素晴らしかった。...それはさよなら誰か言って次に実際に孤独になったことを恐れ感じているようだ。」「デイズ」はイギリス12位に達し、数カ国でトップ20ヒットとなったが、アメリカではチャートインしなかった。 「ヴィレッジ・グリーン」は結局1968年後半に『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』としてイギリスリリースされた。イギリス町と村落生活をテーマとした描写収集であり、それは2年前から作られ録音された曲からなった。それはイギリスアメリカロック評論家からほとんど満場一致高い評価受けてレビュー紹介されたが、売り上げそれほど伸びなかった。アルバム初期商業的失敗原因一つは、人気のあるシングル不足していたことであった本作にはある程度成功収めていた「デイズ」は収録されなかった。「スターストラック」は北米およびヨーロッパでリリースされたが、成功しなかった。商業的に失敗した『ヴィレッジ・グリーン』(本作タイトル結局長かったため、オリジナルプロジェクト名が短縮され名称として使用されるようになったであったが、1969年1月アメリカでリリースされるアンダーグラウンドロック雑誌には受け入れられキンクスカルトバンドとして人気が高まることとなった。「ヴィレッジ・ヴォイス」紙の新編集長ロバート・クリストゴーは「今までのところの年間最優秀アルバム」と本作評したボストンの「フュージョン」紙は「キンクスは困難、悪意を持つプレスとそれらに示され多くにもかかわらず伝わり続ける。...彼らの粘り強さ威厳があり、その禁欲美徳である。キンクスは今だけ現代ドレスをまとい、永遠である。」というレビュー掲載したしかしながら本作批判から逃れることはできなかった。学生新聞「カリフォルニア・テック」紙ではあるライターが「感傷的なロック...想像力欠け不十分にアレンジされた、ビートルズ貧しコピー」と論評した本作リリース当初世界中で売り上げは僅か約100,000であったが、その後キンクスのベストセラーアルバムの最初一枚となった本作は現在も高い人気維持し2004年には3枚組デラックス版再リリースされた。収録曲一つ絵本」はヒューレット・パッカードCM採用され本作人気高めるのに貢献した1969年前半、クウェイフはバンド脱退告げた他のメンバー彼の言葉を真剣に受け止めなかったが、クウェイフがキンクスメンバー告げず結成したバンド「メイプル・オーク」の記事が「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」紙の4月4日号に掲載された。レイ次作セッションのために戻ってくれるようクウェイフに嘆願したが、彼はそれを拒絶したレイ直ちジョン・ダルトン呼び出したダルトン過去に『フェイス・トゥ・フェイス』の頃にクウェイフの代理務めたことがあった。ダルトン1977年の『スリープウォーカーリリースまでバンドと共に活動したレイ・デイヴィス1969年4月ロサンゼルス訪れアメリカ音楽家連盟によるキンクス活動禁止終了交渉するのを手伝い、彼らがアメリカでツアーに戻る機会開いたバンドマネジメントは、アメリカのポップミュージックシーンでの地位回復するために、すぐに北米ツアー計画したアメリカに戻る前にキンクスアルバム、『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』を録音した。前の2作と同様に、『アーサー』は特徴的なイギリス叙情的魅力的なフレーズ基づいていた。本作ささやかな商業的成功であり、アメリカの音楽評論家から好評博した提案されたが実現しなかったテレビドラマスコアとして考案された本アルバムは、デイヴィス兄弟の子時代テーマ中心に展開された。兄弟の姉、ロージー1960年代初頭に夫のアーサー・アニングと一緒にオーストラリア移住したアーサーアルバムタイトルの由来となり、彼は第二次世界大戦中成長したキンクス1969年10月アメリカツアー乗り出した。しかし、彼らは協力的なプロモーター関心のある聴衆集めるのに苦労しツアー失敗終わった予定されていたコンサート日程多くキャンセルされた。しかし、バンドフィルモア・イーストウィスキー・ア・ゴーゴーなどのいくつかの主要な会場演奏することができた。 バンド1970年初頭キーボード奏者のジョン・ゴスリングをラインナップ加えたそれまでニッキー・ホプキンスレイ一緒セッションキーボード演奏していた。1970年5月ゴスリングは「ローラ」でキンクスと共にデビューした。これは服装倒錯者との混乱したロマンチックな出会いの曲であり、イギリスアメリカで共にトップ10ヒットとなり、キンクスが再び世間注目を集めるのに役立った歌詞には元々「コカ・コーラ」という言葉含まれていたが、BBCプロダクトプレイスメント対すポリシー違反しているとして、この曲の放送拒否したレイ・デイヴィスは曲の一部急いで差し替え問題の行は一般的な「チェリー・コーラ」に変更されたが、ライヴではまだ「コカ・コーラ」が使用された。「ローラ」は両方バージョン録音存在するアルバムローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第一回戦』は1970年11月リリースされた。これは重要かつ商業的な成功であり、アメリカでトップ40ランクインし、1960年代半ば以来最も成功したアルバムとなった。『ローラ』の成功後バンド1971年に『パーシー』をリリースした。これは陰茎移植に関する同名の映画サウンドトラックアルバムであった。主にインストルメンタル構成されたこのアルバムは、否定的なレビューを受けることとなったバンドアメリカにおけるレーベルであるリプリーズは、本作アメリカでリリース拒否しバンドレーベルからの離脱につながる大きな論争引き起こしたアルバムのリリース直後に、キンクスパイリプリーズとの契約失効した1971年終わりまでに、キンクスRCAレコードと5アルバム契約を結び、100万ドル前払い金を受け取った。これは、独自のレコーディングスタジオであるコンク英語版建設資金として役立ったRCAでのデビューとなる『マスウェル・ヒルビリーズ』は、ミュージックホール伝統的なアメリカの音楽スタイルカントリーブルーグラスなどの影響受けていた。前作ほど成功しなかったものの、それは彼らの最後偉大な作品としてしばしば評価されるタイトルデイヴィス兄弟育ったマスウェル・ヒルにちなん名付けられ労働者階級の生活とデイヴィスの子時代焦点当てた歌曲含まれていた。『マスウェル・ヒルビリーズ』は、肯定的なレビューと高い期待にもかかわらず、レコード・ワールドのチャート48位、ビルボードチャート100位が最高位であった1972年にはカーネギー・ホールでの2夜のライヴと、スタジオで収録された曲で構成され2枚組アルバムこの世はすべてショー・ビジネス』がリリースされた。このアルバムにはバラードセルロイド英雄」とカリブ海テーマにした「スーパーソニック・ロケット・シップ」が含まれ、これらはイギリストップ20記録した最後の曲であった。「セルロイド英雄」は、死んで消えていくハリウッドスターミッキー・ルーニー当時まだ生きていた)に対すほろ苦い反芻であり、ナレーター彼の人生が映画のようであることを望んでいると宣言している。「セルロイド英雄決し痛み感じない...セルロイド英雄は私の中で生き続ける。」アルバムアメリカで好評博し、レコードワールドで47位、ビルボード70位に達した本作バンド1970年代初頭ロック作品と、次の4年間に没頭したロックオペラとの間の移行示している。

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