郷土史家としてとは? わかりやすく解説

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郷土史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 08:12 UTC 版)

福田啓作」の記事における「郷土史家として」の解説

郷土史研究心血をそそぎ、1932年昭和7年9月同じく郷土史家であった寺島錬二と共に館林郷土史談会」を立ち上げ、同12月秋元文庫発会式を執り行った。月1回例会会員研究発表する場を設け、またその蓄積として『館林郷土叢書』を発行した館林郷土叢書戦時下の紙不足のため1943年昭和18年)で廃刊となったが、月一例会戦後続けられた。個別の研究としては、不明であった館林城鐘銘応声寺での発見や、愛宕神社での青石地蔵板碑研究などにより、館林郷土史研究先鞭をつけた。館林町文化協会より、第1回文化賞受賞している。

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郷土史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/15 11:52 UTC 版)

近藤恒次」の記事における「郷土史家として」の解説

豊橋中学校時代には羽田野敬雄関係の古文書父親から与えられた。教壇に立つ傍らで郷土史家としても活動し1935年昭和10年)頃から船町在住郷土史家である佐藤閑翠に師事した1943年昭和18年)の『東三河産業功労者伝』は近藤編集したとされる1950年昭和25年)からは愛知大学綜合郷土研究所員。1956年昭和31年)には『三河文献総覧』で豊橋文化賞受賞した1972年昭和47年)には『東海道新居関所研究』で東洋大学から文学博士号を授与された。1970年代から1980年代刊行された『豊橋市史』の編集委員務めたその他に豊橋市文化財保護審議会委員、宝飯地方史資料編委員などを歴任した1978年昭和53年8月16日死去した膨大な資料豊橋市中央図書館に「文庫」として残っている。

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郷土史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 06:59 UTC 版)

喜多野徳俊」の記事における「郷土史家として」の解説

1967年昭和42年)ごろから石仏の本を読み始めるが、その繋がり仏像研究家太田古朴と共に1971年昭和46年4月11日医療用胃カメラ利用した仏像内の墨書銘の写真撮影を、日本初め成功させた。この時、対象となった仏像宇陀市大蔵寺地蔵菩薩坐像で、頭内の墨書銘が20年議論となっていたものであった。この成功は、朝日新聞NHKテレビニュースでも取り上げられるなど、世間注目集めた無名園古道との出会いは、西村貞の『南都石仏巡礼』と『奈良石仏』の二著に『奈良坊目拙解』からの引用があるのを見たことがきっかけであった当時はまだ無名園古道正体平松倍千である、という間違った情報訂正され切っていない時代であったため、徳俊は無名園古道詣でるつもりで西方寺平松倍千の墓に詣でたが、墓に無名園古道記載がないのに釈然とせず、住職尋ねて知った神戸平松家親族手紙出したという。平松家からの返答には、林小路町霊厳院墓地無縁塚において、無名園古道記載されている村井姓の墓が金井寅之助によって発見されたという、1944年昭和24年9月22日新聞記事コピー含まれており、それにより徳俊は無名園古道平松ではなく村井であったことを知った当時はほとんどの書がまだ平松誤ったまであることを憂慮し、また村井古道が徳俊と同じ外科医であったことに心をくすぐられ、徳俊は村井古道代表作である『奈良坊目拙解』と『南都年中行事』の現代語訳企画出版した。 村井古道の2大著活字化した後、郷土史家としての限界を徳俊は感じ一時活動止めていたが、1981年昭和56年)末に、当時古梅園勤務していた俳人清二来訪を受け、古梅園倉庫で古い墨の木枠とともに眠っていた8版木見せられた。これらは古梅園主人であった松井長江編んだ句帳で、古道長江七、倍千、来山、文十などの句が含まれたものであったが、これらを見せられたことを機に、徳俊は断念していた古道俳諧調査再開し古道研究本無名園古道』を著した1986年昭和61年直腸がん患ったのち、術後体力回復のため春日大社への早朝参詣行ったことがきっかけで、春日大社石灯篭への興味喚起された。その後石灯篭大手寄進者である横井宗清についての小文著したり、1994年平成6年2月には春日大社オープンセミナー石燈籠の話をしたりといった縁もあり、それらの研究結果元に春日の神の石灯篭』を著した。その執筆時に助けられた、高田十郎1928年昭和3年刊行謄写判本である石燈籠悉皆調査春日の石灯篭」に心動かされ同書付録として併載した。 晩年至り方々提供したエッセイなどをまとめた『奈良閑話シリーズを、正、続、続々の3冊刊行した奈良閑話というタイトルは、畏友であった小川環樹随筆集『談往閑語』にヒント得たという。『奈良閑話』から『続 奈良閑話』の間に外傷が原因硬膜外出血起こし2度にわたり意識失いそのたび開頭手術を受けるといった大きな体への負担もあったが、家業執筆再開できるほどに回復し、続、続々編を上梓した。 2005年平成17年7月30日永眠享年94歳。

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郷土史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 15:02 UTC 版)

小野芳彦」の記事における「郷土史家として」の解説

熊野年代記」も参照 郷土史家としての小野存命中から広く知られたと見え、『熊野史』には南方熊楠からの問い合わせ応える小野書簡収められているほか、新宮中退職後の1929年昭和4年6月には、串本来航した御召艦長門の艦上昭和天皇に、それまで研究成果をまとめた『熊野小史』と題する小冊子献上したまた、小野教職在職中1891年明治24年)から1932年昭和7年)の死去までつけ続けた日記は、水害火事繰り返し見舞われたことにより明治・大正期史料失われた新宮近代生活史社会史を知る上で重要な史料となっている。例えば、教え子であった佐藤春夫社会主義的内容演説をしたことを咎められ停学処せられた事件1909年明治42年〉)の経緯や、大逆事件1910年明治43年〉)の新宮における反響受容証言といった内容含まれている。 小野没後2年後1927年昭和9年)には、新宮中学校同窓会小野遺稿集成編纂した小野遺稿熊野史』が刊行された。本書の内容は、『熊野小史』、その改訂増補版に当たる「増訂熊野小史」、考証調査報告紀行文書簡など十巻に小野業績網羅され西川義方画家漢詩人福田静處らといった、新宮ゆかりの各界人物序文寄せている。『熊野史』は、今日でも熊野地方歴史熊野信仰研究史において最初期著作として必ず名を挙げられる著作である。本書は、熊野歴史全体の中での信仰位置づけ論じ歴史信仰から自然まで射程収めた総合的研究で、今日研究水準からすれば問題は残るものの、史料収集整理し研究の方向性示したものと評価されている。なお、『熊野史』は1973年昭和48年)に新中会(和歌山県新宮中学校および新宮高等学校同窓会)より再刊されたが、著者死後40年経てなお再版され地方史研究書はまれである。 もうひとつ業績は『熊野年代記』の編纂である。『熊野年代記』とは、熊野新宮本願庵主であった梅本家が書き上げ他見許さず秘蔵してきた記録である「熊野年代記古写」「歳代記第壱」「年代記第弐」の3篇の総称である。明治初年神仏分離によって本願としての職分廃絶余儀なくされた梅本家が還俗し今日三重県松阪市退転する際に持ち出した文書類の中に本書含まれていた。小野書写行ったのは1894年明治27年)と見られ、「熊野年代記古写」を収める第1巻と、「歳代気第壱」および「年代記第弐」を収める第2巻2巻本にとめられ総称として熊野年代記名付けられた。小野書写は必ずしも忠実な転写ではなく他の史料からの転記による補強改訂痕跡見られ熊野史基本史料編纂することに関心があった。小野写本からはさらに、1919年大正8年)に東京大学史料編纂所によって謄写版作成された。東大本からの引用『国書総目録』収められたことにより、小野本を通じて熊野年代記流布された。

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郷土史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 06:23 UTC 版)

諸井六郎」の記事における「郷土史家として」の解説

歴史に深い関心持ち古文書などの散逸惜しんで学生時代より本庄郷土史まとめていた。しかし、公務忙しく長い間活動中断されていた。その後執筆再開する条約改正という多忙な時期に本をまとめていたが、本人の弁によれば、「いつ阿部氏辞めさせられ不向きな自分押しつけられるかわからない。そうしたらもっと暇が無くなるからこの時期がよい」という旨を語っていたとされる阿部重役に任ぜられたことで少しの余裕生じたため、執筆再開したものとみられる1912年明治45年)に至り、『徳川時代武蔵本庄』を出版する(この資料解釈内容誤りがないわけではない)。同年以降本庄郷土史書のほとんどが同書原典としている。 本庄栄治郎によれば六郎1890年明治23年以降本庄郷土史に関する資料集め1896年明治29年)には執筆開始していたとされる由来地方史と言えばそれまで領主系譜地方の政治、または神社仏閣名勝に関する記述大部分であり、経済の移遷、住民の生活租税交通関係などはほとんど無関心の状態であった地方経済史関係のものが重要視され始めたのは大正初期より以後のことである。この『徳川時代武蔵本庄』は10章から成り地方である本庄経済史ついてよ書き示されていた。そのため、当時地方史としては、全く異彩を放つ内容であり、本庄栄治郎はこの本を「徳川時代における武蔵本庄経済史見るべきもの」と語り地方経済史が重要になるだろうと着目した六郎先見性敬服している。

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郷土史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:53 UTC 版)

足立正 (教育者)」の記事における「郷土史家として」の解説

足立正は、山陰地方歴史考古学関心持ち教師仕事傍ら研究おこなった1901年明治34年)には、考古学者坪井正五郎とともに天神神社境内にあった石馬石馬谷古墳)の調査行った。この石馬はのちに国の重要文化財となった足立は、収集した考古資料自身設立した山陰徴古館主要な資料として収蔵公開行った編著書としては、小松原真琴との共著である『山陰古代史』、そのほか宇田川村史』、『鳥取県郷土史』、『米子市史』などがある。

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