郷土史家として
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郷土史の研究に心血をそそぎ、1932年(昭和7年)9月、同じく郷土史家であった寺島錬二と共に「館林郷土史談会」を立ち上げ、同12月に秋元文庫で発会式を執り行った。月1回の例会で会員の研究を発表する場を設け、またその蓄積として『館林郷土叢書』を発行した。館林郷土叢書は戦時下の紙不足のため1943年(昭和18年)で廃刊となったが、月一の例会は戦後も続けられた。個別の研究としては、不明であった館林城鐘銘の応声寺での発見や、愛宕神社での青石地蔵板碑の研究などにより、館林郷土史研究の先鞭をつけた。館林町文化協会より、第1回文化賞を受賞している。
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郷土史家として
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豊橋中学校時代には羽田野敬雄関係の古文書を父親から与えられた。教壇に立つ傍らで郷土史家としても活動し、1935年(昭和10年)頃から船町在住の郷土史家である佐藤閑翠に師事した。1943年(昭和18年)の『東三河産業功労者伝』は近藤が編集したとされる。1950年(昭和25年)からは愛知大学綜合郷土研究所員。1956年(昭和31年)には『三河文献総覧』で豊橋文化賞を受賞した。 1972年(昭和47年)には『東海道新居関所の研究』で東洋大学から文学博士号を授与された。1970年代から1980年代に刊行された『豊橋市史』の編集委員を務めた。その他には豊橋市文化財保護審議会委員、宝飯地方史資料編集委員などを歴任した。1978年(昭和53年)8月16日に死去した。膨大な資料は豊橋市中央図書館に「橋良文庫」として残っている。
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郷土史家として
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1967年(昭和42年)ごろから石仏の本を読み始めるが、その繋がりか仏像研究家の太田古朴と共に、1971年(昭和46年)4月11日、医療用の胃カメラを利用した仏像内の墨書銘の写真撮影を、日本で初めて成功させた。この時、対象となった仏像は宇陀市大蔵寺の地蔵菩薩坐像で、頭内の墨書銘が20年来議論となっていたものであった。この成功は、朝日新聞やNHKテレビニュースでも取り上げられるなど、世間の注目も集めた。 無名園古道との出会いは、西村貞の『南都石仏巡礼』と『奈良の石仏』の二著に『奈良坊目拙解』からの引用があるのを見たことがきっかけであった。当時はまだ無名園古道の正体は平松倍千である、という間違った情報が訂正され切っていない時代であったため、徳俊は無名園古道に詣でるつもりで西方寺の平松倍千の墓に詣でたが、墓に無名園古道の記載がないのに釈然とせず、住職に尋ねて知った神戸の平松家の親族に手紙を出したという。平松家からの返答には、林小路町霊厳院墓地の無縁塚において、無名園古道と記載されている村井姓の墓が金井寅之助によって発見されたという、1944年(昭和24年)9月22日の新聞記事コピーが含まれており、それにより徳俊は無名園古道が平松姓ではなく村井姓であったことを知った。当時はほとんどの書がまだ平松と誤ったままであることを憂慮し、また村井古道が徳俊と同じ外科医であったことに心をくすぐられ、徳俊は村井古道の代表作である『奈良坊目拙解』と『南都年中行事』の現代語訳を企画出版した。 村井古道の2大著を活字化した後、郷土史家としての限界を徳俊は感じ一時活動を止めていたが、1981年(昭和56年)末に、当時古梅園に勤務していた俳人岨清二の来訪を受け、古梅園の倉庫で古い墨の木枠とともに眠っていた8枚の版木を見せられた。これらは古梅園の主人であった松井長江が編んだ句帳で、古道、長江、梅七、倍千、来山、文十などの句が含まれたものであったが、これらを見せられたことを機に、徳俊は断念していた古道の俳諧の調査を再開し、古道の研究本『無名園古道』を著した。 1986年(昭和61年)直腸がんを患ったのち、術後の体力回復のため春日大社への早朝参詣を行ったことがきっかけで、春日大社石灯篭への興味が喚起された。その後も石灯篭の大手の寄進者である横井宗清についての小文を著したり、1994年(平成6年)2月には春日大社のオープンセミナーで石燈籠の話をしたりといった縁もあり、それらの研究結果を元に『春日の神の石灯篭』を著した。その執筆時に助けられた、高田十郎の1928年(昭和3年)刊行の謄写判本である石燈籠の悉皆調査「春日の石灯篭」に心動かされ、同書に付録として併載した。 晩年に至り、方々に提供したエッセイなどをまとめた『奈良閑話』シリーズを、正、続、続々の3冊刊行した。奈良閑話というタイトルは、畏友であった小川環樹の随筆集『談往閑語』にヒントを得たという。『奈良閑話』から『続 奈良閑話』の間に外傷が原因で硬膜外出血を起こし、2度にわたり意識を失いそのたびに開頭手術を受けるといった大きな体への負担もあったが、家業も執筆も再開できるほどに回復し、続、続々編を上梓した。 2005年(平成17年)7月30日永眠、享年94歳。
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郷土史家として
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「熊野年代記」も参照 郷土史家としての小野は存命中から広く知られたと見え、『熊野史』には南方熊楠からの問い合わせに応える小野の書簡が収められているほか、新宮中学退職後の1929年(昭和4年)6月には、串本に来航した御召艦長門の艦上で昭和天皇に、それまでの研究成果をまとめた『熊野小史』と題する小冊子を献上した。また、小野が教職在職中の1891年(明治24年)から1932年(昭和7年)の死去までつけ続けた日記は、水害や火事に繰り返し見舞われたことにより明治・大正期の史料が失われた新宮の近代の生活史・社会史を知る上で重要な史料となっている。例えば、教え子であった佐藤春夫が社会主義的内容の演説をしたことを咎められて停学に処せられた事件(1909年〈明治42年〉)の経緯や、大逆事件(1910年〈明治43年〉)の新宮における反響や受容の証言といった内容が含まれている。 小野の没後2年後、1927年(昭和9年)には、新宮中学校同窓会が小野の遺稿を集成・編纂した『小野翁遺稿熊野史』が刊行された。本書の内容は、『熊野小史』、その改訂増補版に当たる「増訂熊野小史」、考証、調査報告、紀行文、書簡など十巻に小野の業績が網羅され、西川義方や画家・漢詩人の福田静處らといった、新宮ゆかりの各界の人物が序文を寄せている。『熊野史』は、今日でも熊野地方の歴史や熊野信仰の研究史において最初期の著作として必ず名を挙げられる著作である。本書は、熊野の歴史全体の中での信仰の位置づけを論じ、歴史や信仰から自然までを射程に収めた総合的研究で、今日の研究水準からすれば問題は残るものの、史料を収集・整理し、研究の方向性を示したものと評価されている。なお、『熊野史』は1973年(昭和48年)に新中会(和歌山県立新宮中学校および新宮高等学校の同窓会)より再刊されたが、著者の死後40年を経てなお再版される地方史の研究書はまれである。 もうひとつの業績は『熊野年代記』の編纂である。『熊野年代記』とは、熊野新宮の本願庵主であった梅本家が書き上げ、他見を許さず秘蔵してきた記録である「熊野年代記古写」「歳代記第壱」「年代記第弐」の3篇の総称である。明治初年の神仏分離によって本願としての職分の廃絶を余儀なくされた梅本家が還俗し、今日の三重県松阪市に退転する際に持ち出した文書類の中に本書は含まれていた。小野が書写を行ったのは1894年(明治27年)と見られ、「熊野年代記古写」を収める第1巻と、「歳代気第壱」および「年代記第弐」を収める第2巻の2巻本にまとめられ、総称として熊野年代記と名付けられた。小野の書写は必ずしも忠実な転写ではなく、他の史料からの転記による補強や改訂の痕跡が見られ、熊野史の基本史料を編纂することに関心があった。小野写本からはさらに、1919年(大正8年)に東京大学史料編纂所によって謄写版が作成された。東大本からの引用は『国書総目録』に収められたことにより、小野本を通じて熊野年代記が流布された。
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郷土史家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 06:23 UTC 版)
歴史に深い関心を持ち、古文書などの散逸を惜しんで、学生時代より本庄の郷土史をまとめていた。しかし、公務で忙しく、長い間活動は中断されていた。その後、執筆を再開する。条約改正という多忙な時期に本をまとめていたが、本人の弁によれば、「いつ阿部氏が辞めさせられて不向きな自分に押しつけられるかわからない。そうしたらもっと暇が無くなるからこの時期がよい」という旨を語っていたとされる。阿部が重役に任ぜられたことで少しの余裕が生じたため、執筆を再開したものとみられる。1912年(明治45年)に至り、『徳川時代之武蔵本庄』を出版する(この資料は解釈や内容に誤りがないわけではない)。同年以降、本庄の郷土史書のほとんどが同書を原典としている。 本庄栄治郎によれば、六郎は1890年(明治23年)以降に本庄の郷土史に関する資料を集め、1896年(明治29年)には執筆を開始していたとされる。由来地方史と言えば、それまでは領主の系譜や地方の政治、または神社仏閣名勝に関する記述が大部分であり、経済の移遷、住民の生活、租税、交通関係などはほとんど無関心の状態であった。地方経済史関係のものが重要視され始めたのは大正初期より以後のことである。この『徳川時代之武蔵本庄』は10章から成り、地方である本庄の経済史についてよく書き示されていた。そのため、当時の地方史としては、全く異彩を放つ内容であり、本庄栄治郎はこの本を「徳川時代における武蔵本庄の経済史と見るべきもの」と語り、地方経済史が重要になるだろうと着目した六郎の先見性に敬服している。
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郷土史家として
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「足立正 (教育者)」の記事における「郷土史家として」の解説
足立正は、山陰地方の歴史や考古学に関心を持ち、教師の仕事の傍ら研究もおこなった。1901年(明治34年)には、考古学者の坪井正五郎らとともに天神垣神社の境内にあった石馬(石馬谷古墳)の調査を行った。この石馬はのちに国の重要文化財となった。足立は、収集した考古資料を自身が設立した山陰徴古館の主要な資料として収蔵、公開を行った。編著書としては、小松原真琴との共著である『山陰古代史』、そのほか『宇田川村史』、『鳥取県郷土史』、『米子市史』などがある。
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