再就役
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「バラクーダ (SS-163)」の記事における「再就役」の解説
バラクーダは1940年9月5日にニューハンプシャー州ポーツマスで再就役し、第9潜水艦隊に配属される。1941年3月2日にポーツマスを出航しバーミューダへ向かい、6月に帰還、第71潜水艦隊に合流する。バラクーダはコネチカット州ニューロンドンからニューイングランド水域で活動し、1941年11月17日に太平洋艦隊に加わる。太平洋海域で哨戒任務に当たり、1941年12月15日に再び大西洋艦隊に配属、1941年12月15日から1942年9月7日まで第31潜水艦隊で太平洋、パナマ南西において6度の哨戒を行ったが敵との遭遇はなかった。 バラクーダは1942年9月7日にパナマ運河地帯のココ・ソロに帰還し修理を受け、その後フィラデルフィアでオーバーホールに入る。オーバーホール後はニューロンドンを拠点として1945年2月まで第13及び第31潜水艦隊で活動する。バラクーダは駆逐艦や他の潜水艦、航空機と共に艦隊訓練をブロックアイランド・サウンドで行った。バラクーダは1945年2月16日にフィラデルフィア海軍工廠に到着し1945年3月3日に退役、1945年11月16日にノース・アメリカン・スメルティング社に売却され、スクラップとして処分された。
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再就役
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「ボストン (重巡洋艦)」の記事における「再就役」の解説
ボストンは1952年1月4日に CAG-1(ミサイル巡洋艦)へ艦種変更される。1952年2月にワシントン州ブレマートンからフィラデルフィアへ曳航され、ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所でミサイル巡洋艦への改装が行われる。この改装で後部8インチ砲塔は撤去され、対空ミサイルランチャーが取り付けられると同時に他の装備も近代化された。ボストンは1955年11月1日にボストン級ミサイル巡洋艦の1番艦として再就役し、東海岸沿いおよびカリブ海でミサイルの運用評価、艦隊演習を行う。その後地中海に向けて1956年11月23日出航し、1957年5月に帰還する。 夏には海軍兵学校生を乗艦させ、南アメリカへの巡航を行った後北大西洋でNATOの演習に参加、オーバーホール後にボストンは1958年6月から9月にかけて、二度目の第6艦隊での巡航を行う。この巡航の間にレバノン危機が発生している。その後は8年間にわたって地中海で旗艦としての作戦活動、ヨーロッパ北部、カリブ海、東海岸での演習に従事した。
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再就役
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タラワの予備役は18ヶ月ほど続いたが、朝鮮戦争が始まると1950年11月30日に再就役の決定がなされる。1951年2月3日にタラワはロードアイランド州ニューポートでJ・H・グリフィン艦長の指揮のもと再就役した。 朝鮮戦争のため再就役したものの、タラワは実戦参加することはなかった。より正確に言うと、第6艦隊および第2艦隊の空母が戦地に派遣されていたため、タラワはその代わりとして用いられた。1952年10月1日に艦種変更がなされ、攻撃空母(CVA-40)となる。1954年春には朝鮮半島水域に到着するが、1953年7月に休戦協定が結ばれていたため実戦を経験することはなかった。 タラワは1954年9月に東海岸へ帰還し、通常任務を再開した。12月に対潜水艦作戦支援空母への転換およびオーバーホールのためボストン海軍造船所に入渠する。転換のための改修作業中の1955年1月10日に艦種変更が行われ、分類番号は CVS-40 となった。転換作業はその夏完了し、整調後にタラワはロードアイランド州クォンセット・ポイントを拠点として作戦活動を行い、対潜水艦戦航空団を指揮しながら訓練を行った。その秋に対潜水艦攻撃第4グループとの演習に参加し、その後クォンセット・ポイントに帰還すると翌年春の演習準備を行った。 1958年8月から9月の間にタラワは海軍第88任務部隊の一部としてアーガス作戦に参加した。同作戦は高高度大気圏での核実験であった。 その後、大西洋艦隊に所属しての活動が続いた。クォンセット・ポイントおよびノーフォークから東海岸で活動し、しばしばカリブ海水域で演習を行った。その後のタラワの任務はおおむね大西洋艦隊のためのパイロット訓練と、ますます増大するソ連潜水艦の脅威に対する偵察任務が占めることとなった。
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再就役
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「レイク・シャンプレイン (空母)」の記事における「再就役」の解説
朝鮮戦争勃発に伴い、レイク・シャンプレインはSCB-27A改装によりジェット戦闘機の運用等に対応する近代化を行うことが決まった。改装対象艦を選定するにあたり、コスト面から現役の艦を引き抜く方針が一時期とられていた。このため「キアサージ」と「レイテ」が選ばれ、「キアサージ」は改装に取り掛かったものの、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まったため「レイテ」は急遽現役続行となった。代わりに予備役の中からレイク・シャンプレインが改装対象に選ばれた。 レイク・シャンプレインはバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船 & 乾ドック社でSCB-27A改装工事を受け、1952年9月19日、G・T・ムンドロフ艦長の指揮のもと再就役した。 11月25日から12月25日にかけてキューバ、ハイチ水域で整調訓練を行った後、レイク・シャンプレインは母港であるフロリダ州メイポートを1953年4月26日出港、紅海、インド洋、東シナ海経由で朝鮮半島水域に向かう。レイク・シャンプレインは当時のスエズ運河(その後拡張工事実施)を通過した最大の艦となった。その後1953年6月9日に横須賀に到着した。 レイク・シャンプレインは第77任務部隊の旗艦として6月11日に横須賀を出港、14日に朝鮮半島西部へ到着する。直ちに航空部隊を戦地へ投入し、朝鮮人民軍および中国人民志願軍の部隊・陣地への攻撃、友軍部隊の航空支援、B-50爆撃機の護衛といった任務を遂行した。 1953年7月27日の休戦協定まで戦闘任務を続行した後、同型艦「キアサージ」と交代して帰国の途に就く。10月11日に南シナ海へ向け出港、24日にシンガポールへ到着した。27日には太平洋を離れ、コロンボ、ポートサイド、カンヌ、リスボンといった都市を経由し、12月4日にフロリダ州メイポートに帰港する。 続く数年間、レイク・シャンプレインは地中海へ数度の航海を行い、NATO軍の作戦行動に参加した。1957年4月25日には第二次中東戦争に伴う緊張状態への対処部隊に加わり、レバノンやヨルダン付近で東側諸国の脅威を防ぐための活動に従事した。この迅速かつ的確な対応により、中東における最悪の事態は回避された。 緊張緩和に伴い、レイク・シャンプレインは7月27日にメイポートへ帰還する。8月1日に艦種変更が行われ対潜空母(CVS-40)となり、アメリカ東海岸で新任務に対応する訓練を行う。1958年2月8日にニュージャージー州のベイヨンを出港、地中海へ航海し、10月30日にメイポートへ帰港する。そこでオーバーホールを受けた後、1959年6月10日に再び地中海へ出航、スペイン、デンマーク、スコットランドを訪れ、8月9日にメイポートへ帰港した。 フロリダ近辺およびカリブ海で活動した後、再度地中海への航海を行い、9月4日にロードアイランド州クォンセット・ポイントに到着する。ここがレイク・シャンプレインの新たな母港となった。 クォンセット・ポイントで1960年6月29日まで活動した後、ハリファックスまで士官候補生のための航海を行い、8月12日に帰港する。翌年2月7日からカリブ海へ向け航海し、3月2日に帰港する。 レイク・シャンプレインはマーキュリー計画の宇宙船回収母艦に選ばれた。1961年5月5日、マーキュリー・レッドストーン3号に乗りアメリカ人として初めて宇宙に出たアラン・シェパード飛行士はケープ・カナベラルから約300マイル離れた地点に着水し、その2分後にヘリコプターがカプセルを回収、無事レイク・シャンプレインの飛行甲板上に降り立った。 1962年には大西洋岸からカリブ海にかけて活動する。6月に士官候補生のための航海でハリファックス、ノバスコシアを訪れ、ジャマイカの首都キングストンではアメリカを代表して8月3日の独立記念祭に迎えられた。 キューバ危機発生により、レイク・シャンプレインも10月24日に西大西洋に展開して海上封鎖に加わった。情勢が落ち着いた後11月23日に帰国の途に就き、セント・トーマス島とヴァージン諸島を経由して12月4日にクォンセット・ポイントへ帰港した。続く数か月はニューイングランド水域での活動に従事し、その後オーバーホールを受ける。 1963年9月、グアンタナモ湾に向かう途中、レイク・シャンプレインは急遽、ハリケーンの被害に遭ったハイチの救援任務を付与される。ヘリコプターで被災者を救出し、食料と医療品を輸送した。 レイク・シャンプレインはニューイングランド水域での作戦活動のためクォンセット・ポイントに11月9日帰還する。1964年の春にバミューダを短期間訪れ、秋にはスペインのウエルバを訪れる。11月6日にバルセロナを出港しジブラルタル経由でクォンセット・ポイントに25日帰還する。 1965年の前半は東海岸で訓練と演習指揮活動に従事する。8月5日にジェミニ5号の回収母艦に指定されるが、これがレイク・シャンプレインにとって最後の任務となった。
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再就役
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「ダウンズ (DD-375)」の記事における「再就役」の解説
ダウンズは1943年11月15日にマレにて再就役した。1944年3月8日、カリフォルニア州サンフランシスコから真珠湾及びマジュロへの護送船団に配備され、3月26日に到着した。占領したウォッジェ環礁を4月5日まで封鎖するように配備され、真珠湾にて補給を行った。その後5月6日にエニウェトクに到着し、入港監視及び沖合哨戒任務を務めた。この間、ダウンズはエニウェトクの浅瀬にてパイロットを救助し、カロリン諸島ポンペイ島沖にて4名の船員を救助した。7月、ダウンズはマリアナ諸島の作戦を支援するためにエニウェトクからサイパンへの護送任務を行い、その後、テニアン島にて哨戒及び火力支援としてアギガン島を砲撃した。10月9日、南西諸島への空爆支援として南鳥島の砲撃に参加した。 ダウンズは10月14日にサイパンを出航し、2日後に第38.1任務群に加わった。ウィリアム・ハルゼー提督指揮下にて損傷した重巡洋艦キャンベラ及び軽巡洋艦ヒューストンを囮として日本海軍をおびき寄せようと試み、ダウンズは索敵にあたった。任務部隊は10月20日、レイテ島への上陸を支援するためにレイテ島に帰投し、ダウンズは同日ウルシー環礁に向かったが、レイテ沖海戦における日本艦隊への空爆中に空母を護衛するために呼び戻された。10月27日に再び出航し、補給のためにウルシー環礁へ航行した。 オーバーホールのため真珠湾に入港した後、ダウンズは1945年3月29日に護送船団を護衛してウルシー環礁に戻り、グアムに向かった。4月5日から6月5日まで、マリアナ諸島で哨戒、海上救助、潜水艦訓練、護衛任務を遂行し、6月9日から同様の任務で硫黄島に向かった。終戦後、ダウンズは米国に戻るように命じられ、9月19日に硫黄島から帰国する軍人を乗せて出航した。カリフォルニア州サンペドロを経由して11月5日にノーフォークに到着した。 ダウンズは1945年12月17日に退役、1947年11月18日にスクラップとして売却された。
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再就役
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2013年12月の終わりに、ロスアトムのセルゲイ・キリエンコ社長はセブモルプーチを再就役させる命令に署名した。原子炉設備の寿命を延ばすための作業が始まり、核燃料を購入して原子炉は再稼働した。復旧工事に伴い、機械系の一部や廃水処理プラント、発電機を交換し、ガントリークレーンも2基の油圧クレーンに交換された。さらに、追加バルブを2個設置し、新たにパイプラインバルブとポンプ、新型の航海用レーダーが設置された。新しい機器の総費用は約5,700万ルーブルに及んだ。乗組員は元の乗組員の80%まで省力化され、その大半は廃船により各地に散らばっていた元乗組員が再び就任した。 2年間の作業を経て、セブモルプーチは9年ぶりにムルマンスクを出港した。2015年11月30日、バレンツ海での海上試験が完了し、セブモルプーチはムルマンスクに戻った。翌12月、セブモルプーチは海上試験に合格した。 セブモルプーチの試験航行は2016年3月1日に予定され、復旧後には北極海航路の提供や、ノヴァヤゼムリャのパブロフスクにある鉛と亜鉛の鉱床など開発に従事することが予定された。セブモルプーチの需要を満たす船舶は他に無く、約10年の運用が見込まれると報じられた。 2016年5月6日、大量の建材と食料品を積み込んだセブモルプーチは、再就役後初の航海のためにムルマンスクを出港し、ノヴォシビルスク諸島のコテリヌイ島に向かった。その後は、北極圏の軍事拠点整備のための資材輸送のために、主にロシア国防省が傭船したほか、原油や天然ガスの採掘プラントへの資材輸送に従事した。 2019年には、ロシア漁業庁(ロシア語版)が中心となって、カムチャツカ地方で捕ったサケを北極海航路でロシア西部に運搬する計画が進められた。8月26日、セブモルプーチはペトロパブロフスク・カムチャツキーに到着し、冷凍サケ5,000tを積み込んでサンクトペテルブルクへ向かった。しかし、この試験航行で収益性が低いことが明らかになったため、2回目の試験航行を含む計画は中止となった.。9月には、セブモルプーチはフィンランド湾からバルト海を向かう試験航海を行い、初めてバルト海方面に貨物輸送を行った原子力船となった。セブモルプーチは試験航海の後にムルマンスクに戻り、スクリューを修理する予定だった。しかし、ロシア国内でセブモルプーチを収容可能な唯一の浮きドッグ「PD-50(英語版)」が2018年10月30日に沈没したまま復旧の目途が立たないため、セブモルプーチは12月に再びサンクトペテルブルクに向かい、そこでスクリューを修理した。 2020年2月には、セブモルプーチを南極のロシアの研究基地への補給物資の輸送に利用する計画が上がっている。
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