キューバ危機とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 社会 > 社会一般 > 事件 > キューバ危機の意味・解説 

キューバ‐きき【キューバ危機】


【キューバ危機】(きゅーばきき)

1962年10月キューバ核兵器発見された事を発端として発生した世界規模危機的状況
相互確証破壊戦略政治的限界露呈させ、全世界全面核戦争勃発寸前恐怖陥れる歴史的事件となった

概要

1959年
キューババティスタ政権内戦崩壊フィデル・カストロ首班とする共産主義政権成立
アメリカはこれを敵視しキューバ対し米州機構からの除名経済封鎖などの制裁措置を執った。
更にCIAによる暗殺工作などの政権転覆狙った工作活動行ったが、いずれも失敗している。
カストロ政権親米勢力との紛争備えてソ連接近していった。
1962年
キューバからの兵器供与要請対しソ連大量武器供与による紛争発生忌避
一方で相互確証破壊による抑止力狙い通常兵器ではなく核兵器配備提案
カストロ政権もこれに同意し極秘裏の内にキューバソ連中距離および準中距離弾道ミサイル配備され始めた

アナディル作戦」と呼ばれたこの輸送作戦ソ連最大のものと言われミサイル積んだ貨物船は、行き先偽るために乗組員には防寒着持たせて北へ向かうと誤認させ、貨物船船長にも出発するまで行き先知らされなかった。
更に外へ出てからも、偵察機対策のため日中乗組員に外に出ないよう命じキューバ到着してからは夜更けミサイル搬入するなど徹底した防諜体制敷かれていた。

1962年10月14日
アメリカ空軍U-2偵察機により、キューバ配備され弾道ミサイル存在発覚
この事実を受け、軍部ミサイル実戦投入可能な状態になる前に空爆行い、更に地上部隊投入するキューバ侵攻主張したが、ケネディ大統領保留とした。

実はこの時、既にミサイル発射可能な状態だったと言われており、加えてキューバ周辺には核魚雷搭載ソ連潜水艦キューバ本土にも戦術核兵器配備されていた。
対すアメリカ軍は、キューバ侵攻にらんだ軍事演習でも核兵器使用想定しておらず、もし侵攻作戦実行されていれば、完全に予想外したアメリカ軍大損害を被ってたばかりか、本土へ核攻撃許してしまう事態発展しかねなかった。

1962年10月22日
アメリカ政府キューバソ連軍ミサイル基地建設されている事実公表
ソ連に対して弾道ミサイル撤去要求されるも、ソ連事実無根主張してこの要求拒否
ペンタゴンは「デフコン2」を発令し全軍が準戦時体制移行
弾道ミサイル弾頭訓練用模擬弾から実弾へと換装され、戦略哨戒によって24時間態勢核戦争勃発備えた
そしてアメリカ海軍大西洋艦隊ミサイル搬入阻止のためにキューバ海上封鎖戦争寸前危機的状況に至る。
1962年10月23日
アメリカ示威行動として、RF-101AやF8U-1Pがミサイル基地対す低空での強行偵察開始した
1962年10月25日
国連安全保障理事会の緊急会合で、キューバ情勢について討議が行われた。
キューバ核ミサイル存在するか否か会議焦点となるも、合意得ず
1962年10月26日
ソ連側が、キューバへの軍事的干渉行わない事を条件核ミサイル撤去提案
1962年10月27日
ソ連側追加条件として、トルコ配備され米軍PGM-19「ジュピター中距離弾道ミサイル撤去要求
同時期、キューバ上空アメリカU-2偵察機ソ連軍のS-75地対空ミサイル撃墜された。
ここに至って交渉決裂はほぼ確実となり、全世界第三次世界大戦勃発覚悟した
同日
急転直下ソ連フルシチョフ首相キューバからの撤退表明
ソ連政府アメリカ側条件呑みアメリカ側キューバへの軍事的干渉PGM-19撤去合意
全面核戦争危機回避された。

その後

この事件により、アメリカ・ソ連は共に核戦争リスク周知し、直接対決忌避するうになる
この後冷戦もっぱら技術開発競争代理戦争終始する事となった。

また、この事件を境に数年間、キューバソ連外交関係如実に悪化した
キューバ当事国であり、また自国存亡の危機にあったにも関わらず一切交渉から閉め出されていた。
ソ連側キューバ稚拙な反応辟易し事件以後各国共産革命政権距離を置くようになったという。


キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/25 01:14 UTC 版)

キューバ危機(きゅーばきき、英語: Cuban Missile Crisisロシア語: Карибский кризисスペイン語: Crisis de los misiles de Cuba)は、1962年10月冷戦の対立が激化し、核戦争寸前まで危機が高まったがそれを間一髪で回避した事件である。なお、これ以前から国がその仕組みや制度として資本主義を採用するか社会主義を採用するかで激しく対立しており、互いを仮想敵国として意識した軍拡を行っていたが、この事件でその緊張は一気に高まった。


注釈

  1. ^ 核ミサイル基地の建設を発見したアメリカであったが、この時点では基地建設であって、核ミサイルはまだ持ち込まれていないと考えていた。したがって要求は核ミサイルの撤去ではなく、ミサイル基地の撤去であった。
  2. ^ 10月16日から10月28日の13日間をキューバ危機とする解釈で製作された映画が「13 Days」である。
  3. ^ 当初のカストロ政府軍の人数の読みが甘く、予想以上の反撃であった。これはこの計画の致命的な誤りであった。
  4. ^ 正確な死傷者数について通説はない。「キューバ危機」203P参照
  5. ^ 作戦の失敗の原因は複数あり、計画そのものがずさんで、政府軍の反撃も当初の見積もりが過少すぎる評価であったと言われる。アメリカは1年半後この捕虜となった亡命キューバ人の身柄引き換えの300万ドルと医療器具など5000万ドル相当の物資をキューバ政府に提供した。ギャレス・ジェンキンズ著『ジョン・F・ケネディ フォトバイオグラフィ』184P
  6. ^ キューバ製葉巻H.アップマン」を愛好していたケネディは、この発表の直前にピエール・サリンジャー報道官に対して至急大量に輸入するように命じ、1,200本を確保したことを確認した後に経済制裁の実施を発表したと伝えられている。「The Rake」Issue 8 P.104 2016年3月
  7. ^ CIA所属。1950年代にフィリピンと南ベトナムで共産軍と戦い、特殊作戦の天才として知られていた。
  8. ^ フルシチョフとカストロは作戦をキューバへの本格的な軍事介入の前触れとみていた。しかしソ連とキューバの情報機関は困惑させることが主眼で情報収集を目的とした中途半端な企てとみていた。そしてアメリカではケネディ大統領はこのマングース作戦を大してよいものとは考えていなかったといわれる。実際のところ政府内のタカ派に対してカストロ排除の行動を進めていると映していく程度の結果を余り期待しない程度の作戦であったとも言える。後にマクジョージ・バンディ補佐官がマングース作戦とは「無為を慰める心の薬だった」と語っている。しかし本気で作戦決行を進めるべきと考える人も政権内にいた。ロバート・ケネディもその1人である。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 51P 《マングース作戦はどれくらい本気だったか?》
  9. ^ 10月20日に作戦は完了する予定であったという説があり、プエルトリコでカストロ暗殺を謀ったという説もあるが、それに向けて軍事行動を準備したという形跡はない。
  10. ^ アナディルとはシベリアにあるベーリング海に流れる川の名称である。この作戦名にしたのは、万一西側の情報機関に漏れてもカリブ海ではなく北極海での行動作戦であると推測させるために名付けた。また派遣される兵士たちに指揮官は冬用の装備一式を携行するように命じた。行先が暖かい南方ではなく寒い北方であるようにスパイにカムフラージュしたのである。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 72P
  11. ^ 後にこの全く公表しないフルシチョフの決定を間違いであった、とする意見は多い。もし1962年8月の時点で両国は軍事協力協定を結んだと公式に声明を出し正々堂々とミサイルが展開されていたら、それに反対するのは難しかったであろうと、何年か後にケネディ政権の高官は率直に認めている。その意味ではソ連とキューバが核ミサイルの配備で合意していたことは国際法上完全に合法であった。全く秘密裡に進めたことがアメリカに正当な防衛の範囲内という認識を世界が持ったことになる。ただしそれでは堂々と展開していれば成功したかは疑問である。ラテンアメリカ諸国の激しい反発とアメリカ国内での反カストロ勢力や議会の殆どを占める反キューバ派はケネディを突き上げ、カストロ追放の動きに出たかも知れない。フルシチョフはケネディにこの圧力に対して弱いと見て、公表することの利益とリスクを考えリスクが大きいと計算したのかも知れない。しかしその計算が正しかったかどうかは知る由もない。「キューバ危機」~もしミサイル配備を秘密にしていなかったら~ 82P
  12. ^ この時期のカリブ海は荒れ模様でハリケーンの季節であり、偵察機を飛ばして荒天の中で飛行して進路を誤って墜落したり、国内深くに入ってしまって撃墜される危険性が高くなることがあり、そのための偵察制限であって、偵察をもっと早くしとけば発見はもっと早かったとか、政治問題化されることを恐れてということではない。「キューバ危機」87P
  13. ^ 共和党リベラル派の上院議員。この2年後の1964年秋にケネディ暗殺事件後に司法長官を辞職したロバート・ケネディが上院議員選挙に立候補して、その対抗馬がこのケネス・キーティングであった。敗北したキーティングは政界を引退した。
  14. ^ 共和党保守派の重鎮。この当時すでに1964年大統領選挙のケネディの対抗馬と目されていた。南部諸州がゴールドウォーターに取られると予想したケネディは翌年11月に最初の遊説で重点州としてテキサス州を訪ね、そこでダラスの凶弾に倒れた。ゴールドウオーターは結局1964年大統領選挙で共和党候補となったが、リンドン・ジョンソンに敗退する。
  15. ^ ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ著「キューバ危機」によれば、前日夜遅くにマクジョージ・バンディに届けられていたが、彼は大統領を起こさず翌朝に報告することにした。
  16. ^ 空軍参謀総長カーチス・ルメイ。第二次大戦では日本への空襲を指揮し、後にベトナム戦争で北爆を強く主張していた。
  17. ^ ここで出された6つの選択肢は実際には一から練り上げたものでなく、ここまでの数か月間で普通の会話で交わされていた内容のものであった。空爆と海上封鎖もすでに上院議員が口にし、軍当局も非常の事態に備えるようケネディからすでに指示されていた。
  18. ^ この1年後のダラスでのケネディ大統領暗殺事件の時に、大統領夫妻が乗った車のすぐ後ろの車に乗って、大統領が撃たれた瞬間にすぐに後方から大統領が乗っている車に飛び乗り、トランクの上に乗り出したジャクリーン夫人を後部座席に押しとどめたのがこのクリント・ヒルであった。
  19. ^ ジャクリーン夫人のこの言葉を聞いた時、クリント・ヒルは心の中で、決して許して貰えないと思うがそれでも彼女を抱き上げてシェルターに入らなければならない、彼女を守る責任がある以上、他の事はどうでもいい、と思ったという。クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」248P
  20. ^ この会談の主な議題はベルリン問題であった。前年ウィーン会談での激しいやりとりとベルリンの壁構築で緊張した米ソ間の最大の問題はベルリン問題であり、前年秋にフルシチョフが一旦は延期した東ドイツとの平和条約締結をまた持ち出してきた。次にキューバ問題ではアメリカの内政干渉や就航制限などを国際法違反として苦情をいい、ミサイルについてはモスクワからの「他意はない」との指令を受けていることもグロムイコは明らかにしている。しかし後にセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」で「グロムイコ外相はシラを切った」と書いている。
  21. ^ この時にシャープ海兵隊総司令官が他の参謀総長たちに向かって吐き捨てるように言った言葉がホワイトハウスの録音機に残っている。「キューバまで行ってミサイルを撤去するなどやってられるか。地対空ミサイル基地を探すなど出来っこない。ともかくあっちに行って邪魔者を蹴散らすのだ。」「キューバ危機」115P
  22. ^ 土田宏 著『ケネディー神話と実像』では午後2時30分からだが、ドン・マントンとデイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』ではこの日の午前に国家安全保障会議を行ったとしている。しかしソレンセンの『ケネディの道』では大統領のヘリコプターがホワイトハウスの南側芝生に着陸したのが午後1時半と述べているので、当日の午後であることは明確である。
  23. ^ 実はエクスコム会議のメンバーはこの時には知らなかったことだが、ケネディはこの前にトルコのミサイル撤去を指示していた。しかしトルコ政府が絶対反対で暗礁に乗り上げたままであった。しかもこのキューバ危機直前に議会の両院合同原子力委員会はトルコとイタリアのミサイル撤去を勧告してこの問題は再び浮上していた。ケネディは危機前の撤去指示を隠したまま、そして全体バランスを見ながらどのように落としどころをつけるかを見計らっていた。
  24. ^ 日本では当時も現在もこのキューバ危機では封鎖という言葉を使用している。
  25. ^ ケネディの封鎖声明後、人口600万人のキューバでは武装した戦闘員が40万人動員され、アメリカは25万人の動員で2000機の戦闘機が万が一のため配置についた。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』206P
  26. ^ セオドア・ソレンセンの「ケネディの道」によると、ケネディは3分の2の賛成票の獲得にも懸念していたが結局全会一致であったことで、ラスクとマーチン国務次官補の労を心からねぎらったという。
  27. ^ 《またケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開した。》という言説があるが、写真の公開は25日の安保理以降のことである。
  28. ^ ウ・タントは飛行機の墜落で死亡したハマーショルド事務総長の代理として前年1961年11月3日に選出され、ハマーショルドの残りの任期を務めた後、キューバ危機の1ヵ月後の1962年11月30日に正式に第3代国連事務総長に就任した。
  29. ^ 海上封鎖後最初の首脳同士のやり取りになるケネディの返書は10月25日にフルシチョフに届いている。
  30. ^ この時の安保理で厳しくソ連大使を追及するスティーブンソン国連大使の姿は後に「アドレー・スティーブンソンの瞬間」という言葉がアメリカ政界の語録に刻まれ、彼が最も脚光を浴びた瞬間でもあった。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』215P
  31. ^ この2日前のやり取りでCIAが証拠写真をねつ造したとゾーリン大使は批判していた。このことでのスティーブンソン大使の逆襲であり、2日前に懸命に否認したことが裏目に出た結果であった。「キューバ危機」134P この国連安保理での模様はテレビ映像で世界に流されて、映像記録として残っている。
  32. ^ 面白いことに、公海上での摩擦を避けるためにソ連船ではなく、あえて他の中立国のソ連チャーター船を選んで停船させていたことになる。見方を変えれば、問題のなさそうな船を止めて臨検し、問題のある船は自主的に戻るようにさせたとも言える。ソ連の立場からいくと、中身を他国に見られることは屈辱であり、選択肢はUターンしか無かったことになる。
  33. ^ テッド・ソレンセン著『ケネディの道』では、ここでフルシチョフの書簡の写しをスカーリに手交したと述べている。ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』では、書簡ではなく言葉での打診を行ったとしている。
  34. ^ ラスク国務長官のことで、ラスクはこの話に乗った。もし本物であれば、突破口になると考えたのであった。「政府内の最も信頼できる筋です」とスカーリはファーミン(フェクリソフ)に伝えた。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』294-296P
  35. ^ これまでデフコン2まで警戒態勢が上昇したのはこのときだけである。2001年アメリカ同時多発テロ事件当時でもデフコン2は発令されなかった
  36. ^ ウォルター・リップマンは当時ワシントンポストの有名なコラムニストで、そのコラムは当時の日本の新聞でも紹介されるほどであった。そしてフルシチョフとはこの前年1961年4月11日に黒海沿岸のソチの近くの別荘をリップマンが訪れて8時間共に過ごしながら語り合った仲であった。またケネディに近い存在としてフルシチョフは見ていた。ただしこの時の二人の話題は殆どがベルリン問題であった。この時のフルシチョフ会見記事で後にピューリッツァー賞をリップマンは受賞している。 フレデリック・ケンペ著『ベルリン危機1961』上巻 226-229P
  37. ^ これを読んだ政権スタッフの中では、実は27日分が先に書かれ、26日分がその後に書かれていたのではないか、と推測する向きもあった。また26日分はあくまでフルシチョフの個人的な書簡であり、27日分はソ連政府が作成したのではないかという見方もあった。
  38. ^ 皮肉な話だが2年前の大統領選挙で米ソ間でミサイルギャップがあるとケネディは共和党政権を攻撃する材料に使ったが、実際はアメリカの方が圧倒的に優位であった。
  39. ^ 潜水艦小艦隊の指令でもあり、他の艦の副艦長と異なり核魚雷発射の承認権を持っていた。また前年にK-19の副艦長として同艦の原子炉事故に遭遇している。
  40. ^ ドブルイニンとの協議はあくまで秘密裡であった。およそ当時の緊迫した状況では公式の会談は不可能であり、しかも内容がトルコに設置しているミサイルの撤去についての密約の話であったので秘密を要するものであった。ただし場所はこの時は司法省となっている。『キューバ危機』155P
  41. ^ その後の東西のデタント(緊張緩和)で、二国間のやり取りは、およそ大使か特別代表が直接指導者に伝えることが普通にはなったが、この東西冷戦の時代にはそのようなチャンネルは存在しなかった。このフルシチョフのミサイル撤去の発表が自国のラジオ放送でアメリカに伝わるということは今日では考えられないことであった。
  42. ^ なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの、敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフは、このことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが、国際政治の現実であったと考えられている。
  43. ^ ソレンセンの著書でABCのスカリー記者がロバート・ケネディとドブルイニン大使との仲介をしたという言説は、正確ではなく、また場所も市内の公園ではなく、司法省の執務室で行われたという資料が多い。ソレンセンの著書にも後述のスカリー記者とKGBファーミンとの接触に関する記述があり、いずれも内容には触れていない。
  44. ^ その後1973年に国連大使となり1975年まで務めた。
  45. ^ この翌日の27日の夜にファーミン(フェクリソフ)とスカーリは再び会っている。フルシチョフからのトルコのミサイル撤去を要求した書簡が届いてからで、スカーリはこの時「卑劣な裏切り行為だ」として激怒していた。
  46. ^ この本の中でケネディの好きな一節は、二人のドイツの政治家が戦争を振り返り「なぜこんなことになったのですか」という問いに「ああ、それが分かっていればな」と答える場面である。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』396P
  47. ^ カトリック教徒であるアメリカ合衆国の大統領は、ケネディのほかには2021年に就任したジョー・バイデンの2人で、非常に少ない。

出典

  1. ^ a b 井高浩昭 著「チェ・ゲバラ」 99P
  2. ^ 『ベルリン危機1961』上巻 フレデリック・ケンプ著 317-318P
  3. ^ 『ベルリン危機1961』上巻 フレデリック・ケンプ著 316-317P
  4. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 49P
  5. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 52P
  6. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 57P
  7. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 59P
  8. ^ a b 「FOREIGN AFFAIRS MAY/JUNE 2023」44p
  9. ^ 「キューバ危機」78-79P
  10. ^ 「キューバ危機」80P
  11. ^ 「キューバ危機」83P
  12. ^ マイケルL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」118P参照
  13. ^ 「キューバ危機」86P
  14. ^ 「キューバ危機」93P
  15. ^ 「キューバ危機」90-92P
  16. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.357
  17. ^ 「キューバ危機」97-98P
  18. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.360
  19. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏 173P
  20. ^ 「キューバ危機」105-107P
  21. ^ a b c 『ケネディー神話と実像』 土田宏 174P
  22. ^ 「キューバ危機」106P
  23. ^  土田宏 174P
  24. ^ 「キューバ危機」107-109P
  25. ^ クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」246P
  26. ^ クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」247-248P
  27. ^ 『ケネディー神話と実像』土田宏 174-175P
  28. ^ 「キューバ危機」111-112P
  29. ^ 「キューバ危機」111P
  30. ^ 「キューバ危機」113-114P
  31. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、pp176
  32. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、pp177
  33. ^ 「キューバ危機」116-117P
  34. ^ 「キューバ危機」118P
  35. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」下巻 273P
  36. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」下巻 271-272P
  37. ^ 「キューバ危機」125-126P
  38. ^ 「キューバ危機」126-127P
  39. ^ 『ケネディ大統領演説集』 黒田和雄訳 79-83P
  40. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、180P  『キューバ危機』 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 127-129P
  41. ^ 『ケネディ大統領演説集』 黒田和雄訳 97-99P
  42. ^ 「キューバ危機」131-132P
  43. ^ Oleg Gordievsky and Christopher Andrew (1990). KGB: The Inside Story. Hodder & Stoughton. ISBN 0-340-48561-2; cited from Russian edition of 1999, pages 476-479
  44. ^ Aleksandr Fursenko and Timothy Naftali, "Khrushchev's Cold War", 2006. ISBN 978-0-393-05809-3
  45. ^ Suvorov, Viktor. Soviet Military Intelligence. Grafton Books, London, 1986, p. 155
  46. ^ 「キューバ危機」133P
  47. ^ 土田宏、pp181
  48. ^ 土田宏、pp182
  49. ^ 「キューバ危機」131P
  50. ^ 「キューバ危機」137P
  51. ^ 土田宏、pp184
  52. ^ 「キューバ危機」138P
  53. ^ 「キューバ危機」139-140P
  54. ^ 「キューバ危機」141-142P
  55. ^ a b 土田宏、pp186
  56. ^ 「キューバ危機」144P
  57. ^ 「キューバ危機」142-143P
  58. ^ 「キューバ危機」143-144P
  59. ^ 「キューバ危機」146P
  60. ^ 「キューバ危機」147P
  61. ^ 「キューバ危機」149P
  62. ^ B-4,B-36,B-59,B-130
  63. ^ The Underwater Cuban Missile Crisis: Soviet Submarines and the Risk of Nuclear War National Security Archive Electronic Briefing Book No. 399 2012年10月24日
  64. ^ The Cuban Missile Crisis, 1962: Press Release, 11 October 2002, 5:00 pm. George Washington University, National Security Archive. October 11, 2002. Retrieved October 26, 2008.
  65. ^ 「キューバ危機」152-154P
  66. ^ a b 土田宏、p188
  67. ^ 「キューバ危機」151-152P
  68. ^ 土田宏、p189
  69. ^ 『キューバ危機』157P
  70. ^ 『キューバ危機』157-158P
  71. ^ a b 「キューバ危機」158P
  72. ^ 土田宏、p190
  73. ^ 「キューバ危機」160-161P
  74. ^ 「キューバ危機」164-165P
  75. ^ 「キューバ危機」168-171P
  76. ^ 「キューバ危機」183-185P
  77. ^ 落合信彦著「2039年の真実」186-187P参照
  78. ^ マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』296-298P
  79. ^ 秋元英一・菅英輝 共著「アメリカ20世紀史」226-227P
  80. ^ a b 秋元英一・菅英輝 共著「アメリカ20世紀史」227P
  81. ^ 秋元英一・管英輝 共著「アメリカ20世紀史」228P
  82. ^ ヘンリー・キッシンジャー 著 「外交」下巻 209-210P
  83. ^ マイケルL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」120P参照
  84. ^ マイケルL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」120-121P参照
  85. ^ 『挑発が招く惨事 回避を 第1次大戦の教訓(上)』ローレンス・フリードマン 日本経済新聞2014年7月17日朝刊24面「経済教室」
  86. ^ 冷戦以来初の「世界最終核戦争」の危機に 米大統領”. www.afpbb.com. 2022年10月26日閲覧。
  87. ^ 1978(昭和53)年度 プロジェクト方式の定着と現場の活力/あの時・世界は… - NHKアーカイブス(番組エピソード)



キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 02:02 UTC 版)

弾道ミサイル」の記事における「キューバ危機」の解説

1962年には中距離弾道ミサイル(IRBM)のR-12(SS-4)がキューバ配備された事を契機としてキューバ危機が発生している。キューバ危機の間、デフコン2発令され北米配備ICBMであるアトラスタイタンI試験配備始まったばかりのミニットマンIと、イギリス配備されソアーIRBMトルコイタリア配備されジュピターIRBM実際に発射準備態勢入ったソ連でもR-7発射台上で待機態となり、キューバ配備されたR-12が発射準備態勢入ったこのような状況はキューバ危機の時が最初で、以後そのような事態発生していない。

※この「キューバ危機」の解説は、「弾道ミサイル」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「弾道ミサイル」の記事については、「弾道ミサイル」の概要を参照ください。


キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:01 UTC 版)

U-2 (航空機)」の記事における「キューバ危機」の解説

詳細は「キューバ危機」を参照 冷戦下においてU-2偵察機ソ連中華人民共和国キューバなどの東側諸国への偵察飛行行った1962年10月14日にはキューバ偵察飛行行いソ連軍ミサイル発射基地建設発見したが、27日にはソ連軍地対空ミサイル撃墜されパイロット死亡した

※この「キューバ危機」の解説は、「U-2 (航空機)」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「U-2 (航空機)」の記事については、「U-2 (航空機)」の概要を参照ください。


キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 02:32 UTC 版)

核魚雷」の記事における「キューバ危機」の解説

当時アメリカソ連搭載した魚雷保有していることを知らなかった他の種類核兵器はよく知られているが、1962年10月のキューバ危機後何年経過してからアメリカ核魚雷攻撃に対して脆弱であったことが明らかになった[要出典]。 危機の前、アメリカ大半ソ連潜水艦追跡し記録していた。危機の間アメリカカリブ海でのソ連存在根絶するために封鎖課したソ連潜水艦B-59で危険な事件発生した可能性があるが、いくつかの疑問提起されている。通信諜報員だったヴァディム・オルロフは、10月27日米軍駆逐艦がB-59へ訓練用爆雷投下した述べた熱気高レベル二酸化炭素乗員苦しみ、その上モスクワとの通信取れない中で、バレンティン・サビツスキー艦長はT5核魚雷発射のために組み立てるよう命じた小艦隊司令官副艦長のヴァシリーイ・アルヒーポフはサビツスキーを落ち着かせ、彼らは潜水艦浮上させる決定をした。他の潜水艦司令官はサビツスキーがそのような命令下した可能性は低いと判断しているため、この話は議論の余地がある

※この「キューバ危機」の解説は、「核魚雷」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「核魚雷」の記事については、「核魚雷」の概要を参照ください。


キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 23:32 UTC 版)

ルドルフ・アンダーソン」の記事における「キューバ危機」の解説

U-2によるキューバ上空飛行任務は、当初CIAによって行われ1962年10月14日アメリカ空軍引き継がれた。10月15日CIA分析によって、偵察撮影した写真のなかにSS-4中距離弾道ミサイル発見された。これら一連の写真がキューバ危機の発端となった10月27日アンダーソン少佐U-2搭乗しフロリダ州オーランドマッコイ空軍基地離陸したその後彼の搭乗機ソ連キューバ供給したS-75ドヴィナ地対空ミサイルによってキューババネス近く撃墜された。1962年10月28日0200時のCIA書類によると、「バネス上空でのU-2損失はおそらく、バネス設置SA-2による迎撃、またはパイロット低酸素症原因であり、現在の情報によると前者だと思われる」と記載されている。アンダーソン少佐は、撃墜時の爆発破片与圧服に穴が開き高空での減圧原因死亡した10月31日ウ・タント国連事務総長代理フィデル・カストロ首相訪問からの帰任の際、アンダーソン少佐死亡発表したケネディ大統領によって、アンダーソン少佐死後空軍十字章および、空軍殊勲章パープルハート章、Cheney Award授与された。 アンダーソン少佐はキューバ危機での唯一の戦闘による犠牲者だが、1962年9月27日から11月11日にかけて、第55戦略偵察部隊B-473つの偵察部隊11人が墜落によって死亡している。 アンダーソン少佐搭乗したU-2残骸キューバハバナにある2つ記念館で見ることができる。エンジン尾翼一部Museum of the Revolutionに、右翼尾翼一部前輪Museo del Aireに展示されている。エンジンエアインテークのひとつはヒロンにあるPlaya Giron Museumで見ることができる。 キューバ上空U-2撃墜映画『13デイズ』登場するチャールズ・エステンアンダーソン役を演じている。

※この「キューバ危機」の解説は、「ルドルフ・アンダーソン」の解説の一部です。
「キューバ危機」を含む「ルドルフ・アンダーソン」の記事については、「ルドルフ・アンダーソン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「キューバ危機」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「キューバ危機」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



キューバ危機と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「キューバ危機」の関連用語

キューバ危機のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



キューバ危機のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
マネーパートナーズマネーパートナーズ
Copyright © 2024MONEY PARTNERS CO,LTD All rights reserved.
航空軍事用語辞典++航空軍事用語辞典++
この記事はMASDF 航空軍事用語辞典++の記事を転載しております。
MASDFでは航空及び軍事についての様々なコンテンツをご覧頂けます。
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのキューバ危機 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの弾道ミサイル (改訂履歴)、U-2 (航空機) (改訂履歴)、核魚雷 (改訂履歴)、ルドルフ・アンダーソン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS