織田信浮 織田信浮の概要

織田信浮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/03 14:10 UTC 版)

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織田信浮
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延4年8月9日1751年9月28日
死没 文政元年11月19日1818年12月16日
改名 八百八(幼名)→信浮
官位 従五位下越前守左近衛将監
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
出羽高畠藩
氏族 織田氏(長政流高家)織田氏(信雄系信良流)
父母 父:織田信栄、養父:織田信邦
兄弟 信之信憑信邦信浮、松平親章室、酒井政勝室、大久保忠官室ら5男5女
養兄弟:永井尚方室
正室:一柳末栄長女
継室:相馬恕胤次女・智恵子
継々室:小笠原長恭長女・光子
稲葉通貫、信美、津田長郷、喜姫ら10男9女

生涯

丹波国柏原藩分家・高家旗本・織田信栄織田高長の三男・長政の子孫)の五男として誕生。

明和4年(1767年)8月21日、明和事件により、幕府は上野国小幡藩7代藩主・織田信邦に蟄居隠居を命じた。また、信邦の仮養子であった実弟の信浮に家督の相続を許可したが、陸奥国信夫郡、出羽置賜郡、出羽村山郡内2万石への転封を命じた。翌年11月15日出羽置賜郡高畠村に陣屋を構える許可を得る。なお、寛政12年(1800年)12月25日、幕府は信夫郡・村山郡内の領地9920石余を収公、村山郡内に替地を与えた。この替地により、領地の大部分が村山郡内に集中することになった。

明和7年(1770年)11月15日、10代将軍・徳川家治御目見する。明和8年(1771年)6月25日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。安永元年(1772年)12月18日、従五位下・越前守に叙任する。なお、明和事件の処罰により、信浮以降の織田家の当主は、大広間詰といった国主並の待遇や従四位下・侍従への官位昇進といった優遇措置を受けられなくなった。信浮は明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで、藩政に見るべきものはなかったといわれる。逆に天明の大飢饉文化7年(1810年)の高畠陣屋焼失などの災難に見舞われた。

文政元年(1818年)11月19日、死去。享年68。

系譜

「羽前天童織田家譜」によれば子女は10男9女。





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