石坂豊一 石坂豊一の概要

石坂豊一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/01 00:20 UTC 版)

石坂豊一
いしさか とよかず
生年月日 1874年5月3日
出生地 日本 富山県新川郡大崎野村
(現・富山県滑川市
没年月日 (1970-05-05) 1970年5月5日(96歳没)
出身校 富山県尋常中学校卒業
(現・富山県立富山高等学校
前職 樺太庁長官官房主事兼地方課長
所属政党無所属→)
立憲政友会→)
日本自由党→)
自由党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
子女 長男・石坂修一

選挙区 富山県選挙区
当選回数 2回
在任期間 1947年5月3日 - 1959年5月2日

選挙区 (富山県第3選挙区→)
富山県第1選挙区
当選回数 5回
在任期間 1924年5月10日 - 1930年1月21日
1932年2月20日 - 1937年3月31日
1939年5月10日 - 1942年4月29日

在任期間 1944年3月1日 - 1946年12月4日
テンプレートを表示

経歴

1874年富山県新川郡大崎野村(現・滑川市大崎野)に10人兄弟の末っ子として生まれる。中学進学は家計上困難だったが、姉の力添えで1892年に富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)を卒業。同期に山田孝雄。税関監吏補試験に合格して神戸税関に勤務しながら京都同志社で学ぶ。1897年に中退して帰郷し、郡書記、富山県属、婦負郡長などを務め、上司だった永井金次郎樺太庁長官に就任したのを機に招聘され、樺太庁長官官房主事兼地方課長を歴任する。

1924年第15回衆議院議員総選挙に富山1区から立候補して初当選。以来通算5期務める。立憲政友会総務、斎藤内閣文部参与官など務めるが、1942年翼賛選挙では非推薦となったため落選した。落選後の1944年富山市長に就任。富山空襲からの復興に尽力した。

戦後の1947年第1回参議院議員通常選挙富山県選挙区から自由党公認で立候補して当選、2期務めた。1959年に引退。1964年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲二等からの昇叙)[3][4]。1970年5月5日死去、96歳。死没日をもって正五位から従三位に叙され、銀杯一組を賜った[1]

最高裁判事を務めた石坂修一は息子[3]。孫には工業技術院長の石坂誠一[3]インテック社長の金岡幸二がいる。

参考文献

  • 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年)
公職
先代
森勇
富山県(旧)富山市長
1944年 - 1946年
次代
尾山三郎
議会
先代
中川幸平
参議院懲罰委員長
1956年
次代
河合義一
先代
新設
参議院建設委員長
1948年 - 1950年
次代
中川幸平
先代
山本慎平
衆議院請願委員長 次代
坂東幸太郎
名誉職
先代
宇垣一成
最年長参議院議員
1956年4月 - 1959年5月
次代
一松定吉

  1. ^ a b 『官報』第13013号15頁 昭和45年5月8日号
  2. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、24頁。
  3. ^ a b c "石坂 豊一". 新訂 政治家人名事典 明治~昭和. コトバンクより2022年12月14日閲覧
  4. ^ 『官報』第11211号19頁 昭和39年4月30日号


「石坂豊一」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「石坂豊一」の関連用語

石坂豊一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石坂豊一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの石坂豊一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS