武家官位 江戸時代の武家官位

武家官位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 05:54 UTC 版)

江戸時代の武家官位

徳川家康江戸幕府を開くと、官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。まず、慶長11年(1606年)に武家官位は江戸幕府の推挙によるものとした。慶長16年(1611年)には武家官位を員外官(いんがいのかん)として公家官位と切り離す方針が打ち出され[8]禁中並公家諸法度(第7条)により制度化された。これは将軍であっても例外ではなかった。武家と公家の官位を切り離すことによって、武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。

ただし、太政大臣については、武家官位(徳川家康秀忠家斉が任官)と公家官位の重複は発生しなかった。朝廷側には、徳川将軍家の太政大臣は実質を伴う公家官位である(禁中並公家諸法度が規定した武家官位にはあたらない)という考え方があったらしく、江戸時代の公家で最初の太政大臣になった近衛基熙徳川家宣の義父でもある)も「太政大臣は東武(徳川将軍)の官になっていて摂関家や清華家は任じられない官」になっていたと記している(『基熙公記』宝永6年9月8日条)[9]

武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、改めて将軍の許可を受けねばならなかった。もっとも、将軍が大名や旗本に与える官位は、将軍が任命するだけでは足りず、幕府の奏上を受けた朝廷から勅許が下りることで初めて正式なものとなった。すなわち、将軍に任命された時点では単に「諸大夫」「四品」などに任じられて「○○守」などの名乗りを許されたという仰書・申付書が下されるだけに過ぎないが、勅許を得ることで「従五位下」「従四位下」といった正式な位階と名乗りがそのまま官途名として認められた位記・口宣案が発給された[10]

なお、位記・口宣案の発給には従五位下諸大夫で金10両、大納言で銀100枚といった具合に天皇に対して金子を進上することになっており、それが上皇皇太子女院中宮武家伝奏上卿や実務にかかわる地下官人などにも配分された。武家官位の授与数は年間で3桁以上に上るため、武家官位の授与は江戸時代の天皇・皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた[11]

ただし、すべての大名が武家官位を持つようになるのは、18世紀に入ってからである。江戸時代の初期には小大名の中には武家官位を授からないままの者も少なくなかった。寛文印知によって大名の格式が整備されたころから、ほとんどの大名に官位が与えられるようになり、宝永6年3月7日(1709年4月16日)に将軍徳川家宣は「今より万石以下の人々、みな叙爵あるべし」と宣言(『徳川実紀』(『文昭院殿御実紀』巻1))して官位のなかった27名の大名が一斉に叙爵されて以後、すべての大名が家督継承時(家格によってはそれ以前の段階)に武家官位が授けられることになった。これにより名目上となった武家の家格はあまり重要視されなくなった。

大名に与える位階は、宮中の武官の家柄であった羽林家に倣い、

官職は

とした。

これらの武家官位について、伺候席席次を官位の先任順としたり、一部の伺候席を四品以上の席としたりするなどして、格差をつける。その上で、大名家により初官や昇進の早さを微妙に変えるなどして家格の差を生ぜしめた。

なお、旗本が武家官位を授けられる場合には、正六位相当の布衣に任ぜられる場合があった。江戸幕府による武家官位では、布衣がもっとも下位にあたった。また、御三家および加賀藩の家老のうち数名が幕府の推挙という形式で叙爵を受けることができた(附家老)。

ただし、以上の規定にもかかわらず、喜連川藩の藩主である喜連川氏のみは、歴代当主は幕府からの武家官位を受けずに公式には無位無官でありながら、「左兵衛督」「左馬頭」を自称し、幕府や朝廷も許容していた。これは、同氏は足利将軍家の血を引く生き残り(古河公方の末裔。「左兵衛督」「左馬頭」は歴代の鎌倉公方・古河公方の官職)であり、幕藩体制の統制下の枠組みには完全には含まれていなかった影響があるとみられている[13]

参考までに1712年(正徳2年)刊行の「和漢三才図会[14]」記載の官位昇進の順序を以下に示す(ただし、左の番号は、便宜的につけたものである)。

1(無位無官)→2諸大夫→3侍従(相当従五位下)→4少将(相当正五位下)→5中将(相当従四位上)→6参議(相当正四位下または従三位)→7中納言(相当従三位)→8大納言(相当正三位・従三位)→9内大臣(相当正二位従二位)→10右大臣(相当従二位)→11左大臣(相当正二位)→12太政大臣(相当正一位従一位

官名の特例

武家官位では、「〜守」「〜頭」等の官途名乗りは官職とはされず、叙爵された者が称しているものとされた。ただし、勅許を得ることで作成される口宣案にその官途名が明記され、単なる自称とは異なる重みを持つことになった。この官途名乗りにおいても幕府の許可が必要とされていたが、原則的には名乗る当人の希望が重視された。ただし、一部の官途名に特例を設けるなどして大名統制に利用している。具体的には次のとおり。

忌諱・憚られた名乗り

有力大名(三家および親藩、本国持、大身国持の上位および有力譜代)の官名

  • 尾張徳川氏 - 権中納言、権大納言、右兵衛督は喜連川氏(足利)に優先
  • 紀州徳川氏 - 権中納言、権大納言、常陸介
  • 水戸徳川氏 - 権中納言、左衛門督
  • 加賀前田氏 - 参議、加賀守
  • 越前松平氏(福井藩) - 参議、左近衛権中将・少将、越前守
  • 島津氏 - 左近衛権中将・少将、修理大夫、薩摩守、大隅守
  • 仙台伊達氏 - 左近衛権中将・少将、陸奥守
  • 会津松平氏 - 左近衛権中将・少将、肥後守は細川氏に優先
  • 連枝(西条松平・高須松平など) - 左京大夫、弾正少弼、摂津守、左近衛権少将、侍従
  • 黒田氏 - 肥前守、美濃守、筑前守、左近衛権少将、侍従
  • 細川氏 - 越中守、肥後守(会津不使用時)、左近衛権少将、侍従
  • 浅野氏 - 弾正少弼、安芸守、左近衛権少将、侍従
  • 上杉氏 - 弾正大弼、左近衛権少将、侍従
  • 佐竹氏 - 右京大夫、左近衛権少将、侍従
  • 毛利氏 - 大膳大夫、長門守、侍従
  • 鍋島氏 - 丹後守、信濃守、侍従
  • 藤堂氏 - 和泉守、侍従など
  • 越前松平氏(津山藩) - 左近衛権中将、越後守
  • 酒井氏
  • 本多氏(平八郎家) - 中務大輔、侍従など
  • 榊原氏(式部大夫家) - 式部大輔、侍従など
  • 井伊氏(彦根藩) - 掃部頭、侍従など

武家官位に対する異論

武家官位は伝統的な律令制以来の身分体系に武家を組み込み、将軍を頂点とした序列を付け、統制を行うのに効果的な役割を果たしたが[16]、これに対し江戸時代において全く異議が唱えられなかったわけではない。

第6代将軍家宣・第7代将軍家継の下で正徳の治を行った新井白石は、著書『読史余論』で足利義満の時代について触れた中で、義満とその臣下は君臣関係にあるが、同時に義満は天皇の臣下であるため天皇の臣下と言う点では将軍もその臣下と同じということになってしまうために(君臣共に王官をうくる時は、その実は君・臣たりといへども、その名はともに王臣也)将軍の臣下(守護大名達)は義満に心から従わず、それゆえに反乱が多かった(明徳の乱応永の乱など)と論じた。そして、公家・武家から人民に至るまで将軍の臣下となるような独自の身分制度を作るべきだったと主張している[17]。また荻生徂徠は第8代将軍吉宗の諮問を受けて提出した意見書『政談』で、大名の中には官位を叙任する文書は天皇から発給されるので天皇こそ真の主君だと考え、今は将軍の威勢を恐れているので家来になっているだけの者がいる、と指摘し、武家には十二段階の独自の勲等制度を設けるべきだと提言している[18]。この指摘は、幕末になって江戸幕府の威勢が衰えると現実のものとなった[19]


  1. ^ 木下聡 2011, pp. 215–216.
  2. ^ 木下聡 2011, p. 216.
  3. ^ 木下聡 2011, pp. 237–238.
  4. ^ 金子拓 1998, p. 88.
  5. ^ 金子拓 1998, p. 93.
  6. ^ 和田裕弘『信長公記-戦国覇者の一級資料』(中公新書、2018年)p.144.わずかの間「上総守」を名乗ったことは『氷室和子氏所蔵文書』からも確認されるが、親王が上総国の国司となる原則から、(知識人に指摘されたのか)4日ほどで「上総介」に改名し、僭称したとある(前同p.144.)。
  7. ^ 当初は慣例的に親王が任命されるはずの「上総守」を名乗るなど混乱も見られる。
  8. ^ 矢部、2011年、P171-172。
  9. ^ 長坂良宏「近世朝廷における太政大臣補任の契機とその意義」『近世の摂家と朝幕関係』吉川弘文館、2018年。
  10. ^ 池上裕子小和田哲男編、小林清治編、池享編、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社1995年)599頁参照。
  11. ^ 藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』(講談社2011年)203-204頁参照。
  12. ^ 四品以上に昇進する大名家一覧を参照
  13. ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年、198-274頁(喜連川家の誕生)。
  14. ^ 寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館、1906年(明治39年),124頁
  15. ^ 八代藩主鍋島治茂以後。
  16. ^ 藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』(講談社2011年)205-206頁参照。
  17. ^ 藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』(講談社2011年)206-207頁参照。
  18. ^ 藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』(講談社2011年)207-208頁参照。
  19. ^ 藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』(講談社2011年)210頁参照。


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