展望車
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国鉄・JRの客車
戦前形
日本の国鉄が1960年代以前に保有した正式な展望車は、東海道本線・山陽本線の特別急行列車に連結された。これらはすべて「乗り心地がよい」とされた3軸ボギー台車を装備し、後尾に柵を備えた開放式展望デッキを設けていた。いずれも先行するアメリカの流儀に倣ったものである。民間メーカーでは1両も製造されず、国鉄工場で最高水準の技術をもって製作された。
通常は三等級制時代の一等車として編成の最後尾に連結された。したがって展望席も一等客専用の領域であった。また、それゆえ必ず車掌室を備えていたことから、緩急車を示す「フ」は付かないものとされていた。
この時代の日本における展望デッキは、主として駅での発車時および見送り客に答礼し手を振るための「お立ち台」であり、乗客が走行中にデッキに出ることはほとんどなかった。
初期の木製展望車
日本最初の展望車は、1908年に九州鉄道が発注した車両を国有化後の国鉄が引き継いだ、ブトク1形だとされる。
定期列車において初めて使用されたのは、1912年に新橋駅 - 下関駅間一等・二等特別急行列車番号1・2列車(1929年に「富士」の愛称を与えられる。)に連結された木造車体のオテン9020形である。1912年に5両が製造され、翌1913年には一部の設計を変更したオテン9025が増備された[3]。
1923年には車体断面を大型化した木造展望車のオイテ28070形が登場し、オテン9020形に取って代わった。1928年の称号改正でオイテ27000形に改称されている。置き換えられたオテン9020形4両は荷物車へと改造されたが、オテン9025はその後も予備車として残り、称号改正ではオイネテ17000となった。
オイテ27000形ものちには鋼製展望車の登場によって「富士」の運用から外され、うち2両は引き続き東京駅 - 下関駅間急行7・8列車の京都駅 - 下関駅間で使用、残りは予備車となったが、急行7・8列車の運用が鋼製展望車(スイテ37040形の登場によって「富士」から外れたスイテ37000形)に置き換えられた1939年には第12回東京オリンピックに備え2両が鋼体化改装され、スイテ37050(後・スイテ37形→マイテ58形)となって特別急行列車「鷗」(かもめ)に充当されている。鋼体化されなかった3両はのちに荷物車等に改造された。
なお、外国要人や貴賓・高官の移動時に運用された展望車類似の特別車としてオトク9010形が1911年に製造されたほか、1922年には国賓用として10号御料車が展望デッキを備えた形で登場している。
鋼製展望車
1927年から国鉄客車の車体は鋼製が標準となった。20 m車体をもつ優等車両についてはペンシルバニア式3軸ボギー台車のTR73形が開発され、展望車についても1930年以降にこれを装備した鋼製車が製作されることになる。
まず、1930年に最初の鋼製展望車としてスイテ37000形(後・スイテ38形→1両はマイテ39 21に改造)が登場し、続いてスイテ37010形(後・マイテ39形→マイテ39 1・11)が製造され、いずれもオイテ27000に代わって「富士」に充当された。
当初形式 | 1941年 改称後 |
区分室 | 展望室 様式 |
屋根 |
---|---|---|---|---|
スイテ37000 | スイテ38 | なし | 洋式 | 二重 |
スイテ37010 | スイテ39 | なし | 桃山式 | 二重 |
スイテ37020 | スイテ48 | あり (前寄り) |
洋式 | 二重 |
スイテ37030 | スイテ47 | あり (中央) |
洋式 | 二重 |
スイテ37040 | スイテ49 | なし | 洋式 | 丸 |
スイテ37050 | スイテ37 | あり (前寄り) |
洋式 | 丸 |
このうち、スイテ37000形の車内は当時同時期に新築した有名デパートの白木屋の内装デザインに似ていることにちなんで、「白木屋式」と呼ばれた洋風の内装を採用し、スイテ37010形の車内は「桃山式」と呼ばれた純和風の内装であった。国際列車であった戦前の特急「富士」にあっては殊に外国人観光客に好評を博したとされるが、太平洋戦争後に復活した際には「まるで霊柩車のようで不気味」「仏壇じみて縁起が悪い」と乗客の不評を買い、予備車に回された経緯がある。
その後、1931年にはスイテ37000形に準じた洋風内装のスイテ37020形(後・スイテ48形)が超特急「燕」用に製造され、またスイテ37000形のうち1両は「燕」用にスイテ37030形(後・スイテ47)に改造されている。これらはいずれもダブルルーフであった。
1938年には、1940年に開催予定であった第12回東京オリンピックに備え、近代的な丸屋根構造を採用、車内に換気ダクトを設けるなど冷房装置の取付を当初から想定した(実際に冷房装置を付けたのは戦後)スイテ37040形(後・マイテ49形)が登場し「富士」に投入されスイテ37000形を置き換えたが、展望車自体の新製はこれが最後となった。この後に登場したスイテ37050形(後・スイテ37形→マイテ58形)は上述のとおりオイテ27000形の鋼体化改造である(オイテ27000は、台枠などの鋼材がインチ寸法で造られていたため流用が困難で、戦後の鋼体化改造とは異なって、台枠も新製されたとされている。そのため名義のみの改造車とも考えられる)。
なお、鋼製展望車の車内の標準的な構造は一等寝台車とともに使用された「富士」用のスイテ37000形、スイテ37010形、スイテ37040形においては一等寝台車が区分室方式であったため、展望車自体は前位が一等室(談話室)で1人掛回転座席を備え、後位が展望室で1 - 2人用ソファを10席程度配置したものであり、基本的にオープンサロン方式。一等寝台車を連結しない昼行特急の「燕」「鷗」用のスイテ37020形、スイテ37030形、スイテ37050形は上記に加えて区分室を2室程度備えており、貴賓・高官の乗車に備えられていた。いずれも定員は展望室が10名程度、一等室が16 - 19人程度であった。
太平洋戦争末期には、特急列車の廃止に伴い、展望車を含む優等車両は戦災を避けて地方に疎開措置が取られた。「輸送力増強」との名目で三等車への格下げ改造の計画も立てられたが、時すでにそれを行う余裕すらなく荒廃していった。
戦後の展開
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F5%2F5e%2FJNR-PC-Maite3911.jpg%2F250px-JNR-PC-Maite3911.jpg)
1945年の日本の敗戦に伴い、温存されていた優等車両のほとんどは進駐軍に接収された。このとき展望車形であった10号御料車も省番号スイテ10となり、オクタゴニアン号の編成に組み込まれた。また戦後の国鉄は正式な「展望車」は新製していない。展望車はほとんどが接収されたが、残った3両の展望車が1949年に復活した戦後初の特急「へいわ」、ついで翌年改称した「つばめ」に充当された。すなわち、スイテ38 2、スイテ39 1・2から各々一等客室を大改造した(この時に国鉄初のリクライニングシートが導入された)マイテ39 1・11・21である。桃山式展望車であったスイテ39の2両はともに車内の傷みが激しかったため、マイテ39 11のみに装飾を集めて桃山式の内装を復旧。マイテ39 1・21は洋風のデザインとされた(デザインはそれぞれ違う)が、桃山式の11は先述のとおり利用者の評判が芳しくなく、予備車となった。なお、マイテ39の座席配置や車内設備は統一されており、3両とも定員は展望室10名、一等室14名(うち固定リクライニングシート8名、向かい合わせ固定腰掛6名)、一等室前方(すなわち展望室方向とは反対側)にサービスコーナーを設置していた。
やがて進駐軍に接収されていた車両も全車が返還され、その多くが東海道本線特急「つばめ」「はと」に使用された。この時期(1949年8月ごろ)に車軸駆動による冷房化(マロネ40形の項目を参照)により重量が増加し、「ス」級から「マ」級になった。
当初 | 1949年 整備後 …は接収中 |
1953年 改称後 |
1956年 塗色 |
廃車時期 |
---|---|---|---|---|
スイテ38 2 | マイテ39 21 | → | 淡緑5号 | 1960年度? |
スイテ39 1 | マイテ39 1 | → | 淡緑5号 | 1960年度? |
スイテ39 2 | マイテ39 11 (桃山式) |
予備車 | 茶 | 1962年度 |
スイテ48 1 | 1950年 「はと」用 |
予備車 | 茶 | 1954年 |
スイテ47 1 | 特別職用車 | マイ98 1 | 茶 | 1956年 |
スイテ49 1 | … | 1954年 マイテ49 1 |
淡緑5号 | 1963年度 |
スイテ49 2 | … | マイテ49 2 | 淡緑5号 | 1960年度 |
スイテ37 1 | … | マイテ58 1 | 淡緑5号 | 1961年度 |
スイテ37 2 | … | マイテ58 2 | 淡緑5号 | 1961年度 |
スイテ48 1、スイテ37 2(後・マイテ58形)、スイテ49 2(後・マイテ49形)は接収解除後、整備の上「はと」用として1950年から使用された。これらの展望車は車内がほぼ戦前のままで使用された。また1953年には返還された旧スイテ37 1を整備し、冷房化もあって同年の称号改正によりマイテ58 1として「はと」に投入、スイテ48 1は予備に回った。1954年には返還された旧スイテ49 1を近代的に整備・改造(一等室の座席を1人掛けリクライニングシートに変更、蛍光灯化、冷房設置)してマイテ49 1とした。この改造によりマイテ49 1は最も近代的な姿をもつ展望車となり、臨時列車用として1963年まで現役で使用された。
1955年には一等寝台の廃止(二等寝台への全車格下げ)により、国鉄で定期使用される一等車は東海道本線特急の展望車のみとなった。1956年に東海道線全線電化に伴い、これら客車特急用の車両は淡緑5号(いわゆる青大将色)に塗装されたが、その内訳は、「つばめ」用のマイテ39 1・2、マイテ49 2、「はと」用のマイテ58 1・2、および予備車マイテ49 1の6両で、これらが最後まで使用された[4]。
一等車の需要は元々限られたもので、1950年代初頭には山陽線特急「かもめ」への充当を想定して密閉式の展望車(スイテ30形)新造が計画されたこともあったが[注釈 1]、試作的改造(スハ32・オハ35系改造のスヤ51形)のみで実現せず、試作車も国鉄内部の巡察等に用いられたのみに終わった。また、山陽線特急「かもめ」への一等展望車連結も、敗戦に伴い日本の植民地・勢力圏がなくなったアジア大陸との連絡の使命を失った山陽線においては需要が極めて少ないと判断されて、実現しなかった。
1960年に東海道線昼行特急の電車化により展望車の定期運用はなくなった。展望車各車は専ら団体用となり、同時に二等級制への移行によって「マイテ」から「マロテ」へと名称が変更された。これらは1964年までに台枠を流用したオシ17形に改造され、あるいは用途廃止によって廃車となるなどして全車が姿を消した。
なお、厳密な展望車には該当しないが、20系客車の編成端部に連結することを前提としたナハフ20形(のちには改造でナハネフ20形)・ナハネフ22形には車掌室横に展望スペースが設置されており、密閉式展望車を意識した造りになっていたともいえる。ただし、これらの車両は運用上編成の向きを変えることは行われていなかったので、後部から展望を楽しめたのは片道に限られていた。
なお、「つばめ」「はと」などでは三角線と呼ばれる配線を利用して編成ごと方向転換をしていたが、近年のそれは編成の両端に展望車を設ける方法が一般的である。あるいは蒸気機関車牽引列車の場合は発着駅近辺に蒸気機関車の転車台が残っているため、それを使って展望車のみ方向転換させる場合もあった。
保存車から車籍復活、そしてまた保存へ
保存車としては東京都青梅市の青梅鉄道公園(東京都青梅市)のマイテ39 11、交通科学博物館(大阪市)のマイテ49 2が残存していた。
マイテ49 2については改修のうえ1987年3月6日付で車籍復活(復籍)し、国鉄から西日本旅客鉄道(JR西日本)が引き継いだ。復籍に際し、従来設置されていた車軸駆動式冷房装置を撤去して、新たに冷暖房兼用のヒートポンプ式インバータエアコン(三菱電機製)を設置するとともに、12系・14系客車などから冷暖房用電源を供給してもらえるように改造された。エアコンは車両強度の関係もあり、一般の家庭用エアコンが使用され、床下に室外機を、客室内に操作用リモコンをそれぞれ設置。展望車のダブルルーフ部分に設置された送風用ダクトを通じて客室内に送風されるようにした。元来冷房対策で二重窓などの装備をもっていたため、家庭用エアコンの出力程度で充分な冷却性能を発揮できた。
同社では、山口線の「SLやまぐち号」をはじめとするイベント列車や団体臨時列車において限定的に運用されていたが、2009年8月15日の「SLやまぐち号」での運用を最後に、旅客営業で使用される機会はなくなった。
その後は長らく所属先である宮原総合運転所(現・網干総合車両所宮原支所)にて走行可能な状態で保存留置されていたが、2022年に日本の鉄道開業150周年記念の一環として京都鉄道博物館への収蔵が決定。SLによる牽引で人を乗せて運転するのは同年10月11日が最後となり、同月14日付で廃車とともに同館への収蔵車両となった。以後は展示のみとなる予定[5]。
また、マイテ39 11は、損傷が激しくなったため東日本旅客鉄道(JR東日本)の大井工場(現・東京総合車両センター)に移送されて復元が試みられたものの、高度な細工を凝らした桃山式の内装はもはや修復できる技術が残っておらず、実現には至らなかった。やむなく装飾等が取り払われた上で、東京総合車両センターに保管。その後、2007年に開館した鉄道博物館において保存されることとなり、現時点で可能な限りの内装の復元が施された上で展示されている。
注釈
- ^ もしこの計画が実現していた場合は密閉式のスイテ30形が東海道線特急に使用され、山陽線特急にはマイテ39形が転用されていたかもしれないともいわれている。
- ^ 「アルファコンチネンタルエクスプレス」「フラノエクスプレス」「トマムサホロエクスプレス」 「サロンエクスプレスアルカディア(後・Kenji)」「リゾートライナー」「ゆぅトピア」「ゴールデンエクスプレスアストル」「スーパーサルーンゆめじ」「リゾートサルーン・フェスタ」「エーデル丹後・鳥取・北近畿」もハイデッカー展望車であった。
- ^ 加えて小田急20000形はハイデッカー構造とされた。
- ^ 2012年をもって「あさぎり」からは撤退し、両者とも富士急行の「フジサン特急」に転用された。
出典
- ^ 『朝日新聞』朝刊2009年1月19日1・4面
- ^ “About Our Train”. ナパバレー・ワイントレイン. 2015年3月10日閲覧。
- ^ 「展望車特別急行に連結」国民新聞明治45年5月23日 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ^ 以上戦後の変遷は、星晃「1等展望車変遷記」(『回想の旅客車』下巻、交友社、1985年、pp.270 - 283・学研、2008年、復刻版pp.96 - 109)による。
- ^ 京都鉄道博物館「マイテ49形」収蔵へ:豪華展望列車 乗り納め『毎日新聞』夕刊2022年10月7日(社会面)2022年10月17日閲覧
- 1 展望車とは
- 2 展望車の概要
- 3 国鉄・JRの客車
- 4 1980年代以降の展開
- 5 電車・気動車
- 6 脚注
- 展望車のページへのリンク