大臣 (日本) ヤマト王権の大臣

大臣 (日本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 02:16 UTC 版)

ヤマト王権の大臣

ヤマト王権大臣は「おおおみ」と読む。大臣には、古墳時代(かばね)の一つである(おみ)の有力者が就任した。日本書紀には、最初の大臣として武内宿禰(たけのうちのすくね)の名が見えるが、武内宿禰は実在の人物とは考えられていない。しかし、武内宿禰の後裔を称する葛城氏(かつらぎし)、平群氏(へぐりし)、巨勢氏(こせし)、蘇我氏(そがし)などの有力氏族出身者が大臣となった。

大臣は、各大王の治世ごとに親任され、反正天皇から安康天皇までの治世に当たる5世紀中期には葛城円が、雄略天皇から仁賢天皇までの治世に当たる5世紀後期には平群真鳥が、継体天皇の治世に当たる6世紀前期には巨勢男人が、敏達天皇から推古天皇までの治世に当たる6世紀後期から7世紀初期には蘇我馬子が、それぞれ大臣に任命された。蘇我馬子以降は蘇我氏が政権の中枢を担うようになり、大臣は蘇我蝦夷(馬子の子)が跡を継いだ。皇極天皇の治世に当たる645年、いわゆる乙巳の変により、蘇我蝦夷は自害し蘇我氏の隆盛は終わった。この事変の直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣右大臣を置き、権力集中の防止を図った。

律令制の大臣

律令制の大臣は「だいじん」と読む。大臣は、律令制において重要な政治決定を司った太政官の長官(かみ)を指す。おとどおおいもうちぎみおおまちぎみおおまえつぎみなどとも称した。

大臣は、従二位から正一位までの位階に相当する官職とされた。律令制では、太政大臣左大臣右大臣が設置された。また令外官として内大臣が置かれた。内大臣は、初めは名誉称号であったが、のちには左右大臣を補佐し、その出仕がないときに代って政務を執った。大臣は、貴族としても最高位の栄達を意味する地位である。

唐名で、大臣一般を「僕射」、「宰相[注釈 1]、「相国」、「丞相」と呼ぶ。いずれも「丞相府」を略したものである。現在でも内閣総理大臣を「首相」といい、各省大臣を「省名+相」(法相、農水相など)で呼ぶのは、この大臣の唐名に由来する。左大臣は「左府」あるいは「左僕射」、右大臣は「右府」あるいは「右僕射」といった[注釈 2]。また「三公」(本来は太師太傅太保)を日本における太政大臣・左大臣・右大臣になぞらえた。『職原抄』には「三公は天の三台星を象るなり」とあり、天帝を紫微星[注釈 3]としてその左右に虚精・陸淳・曲順の三星があるとされたことにちなみ、大臣を「星の位」あるいは大臣そのものを「台」で表した[注釈 4]。ここから転じて大臣という職の有無にかかわらず行政機関のトップ集団を「台閣」、天皇の考え・気持ちを「叡慮」というのに対して、大臣の考え・気持ちは「台慮」という。また、代には三公がの下に列座して執務したことから三槐といい、大臣そのものを「槐」で表した[注釈 5]。さらに、南斉の大臣であった王倹が、自宅にを植えたことに由来[1]し、大臣を蓮府ともいった[2]

大臣に任命されることは「大臣召し」という。大臣が毎年の正月に宴会を開き多数の客人(主賓を尊者といった[3])を自邸に招いて饗応する風習があり、これを「大臣大饗」(だいじんのだいきょう)といった。また、大臣に任ぜられた際にも同様に宴会を開き、これを「任大臣大饗」といった。任大臣大饗は初めて内大臣ないし右大臣に就いた際にのみ行われ、右大臣から左大臣に遷任した際には開かれなかったが、太政大臣に就いた際には特別に行った[4]。また、安和の変ののちに大納言筆頭から右大臣に進んだ藤原在衡は任大臣大饗を行わなかったことが知られている。

大臣の住居は「御所」と呼ばれ、大臣が亡くなることは「薨御」(こうぎょ)と呼んだ。御所・薨御などの語は、通常、皇族摂政関白に対して用いられる。これは、大臣が非常に高い権威を有していたことを意味する。特に江戸時代には、三公は親王よりも上位とされ、その権威は高かった。

大臣のうち太政大臣は、「則闕の官」(そっけつのかん)と呼ばれ、適任者がなければ空席とされた。そのため、左大臣が大臣の最上位として扱われることも多い。左大臣や右大臣が空位となることは極めて稀であり、あえて任命されずに空位となる状態は「大臣闕」(だいじんけち)といわれた。

太政大臣などは当初、天智天皇が第一皇子である大友皇子を任命するなど、皇族が任じられる場合もあった。しかし、すべての時代を通して一部の例外を除いてほぼの四大氏族、特に藤原氏と源氏を中心に任じられた。

武家としてはじめて大臣に昇ったのは桓武平氏の一流伊勢平氏であり、保元の乱平治の乱朝廷に貢献した平清盛が太政大臣にまで上り詰めた。その後、源頼朝により鎌倉幕府が成立した後、3代将軍源実朝右大臣まで昇った。室町時代に入ると足利義満将軍兼帯で内大臣准后に就任し、以降征夷大将軍就任と同時に大臣に任ぜられるのが慣例となり、江戸時代に至ってもその慣習が続いた。

なお、代々この職に就くことが許される家柄としては、公家では、摂家清華家大臣家[注釈 6]であり、これらの公家が主に朝廷の大臣を占めていた。武家としては足利将軍家の他、織田信長豊臣秀吉織田信雄徳川家康をはじめ徳川将軍家などが武家として大臣となった。また、公家の中で大臣につく家柄ではなかった日野家などは代々、足利将軍家の縁戚として左大臣まで出すなど、時として家格を越える出世をする者もあった。

これらの家格の家は主に明治において公爵侯爵爵位を賜り、貴族院議員を輩出するなど近代でも活躍した。

明治維新後の大臣

1868年明治元年)の明治維新後、1885年(明治18年)に内閣制度が確立するまで、明治政府の官制は度々改廃された。→詳細は太政官 (明治時代)を参照のこと

大臣(だいじん)は、1869年(明治2年)7月に定められた二官八省の官制において定められた。太政官に左右大臣と大納言参議が置かれ、右大臣三条実美が任命された。

1871年(明治4年)の廃藩置県後の官制では、正院に太政大臣、左右大臣と参議が置かれた。太政大臣には三条実美が、左大臣には島津久光、右大臣には岩倉具視が任命された。


注釈

  1. ^ のちには、参議の唐名として用いられるようになる。[要出典]
  2. ^ 方広寺鐘銘事件の際、梵鐘の銘文において「右僕射源朝臣」と書いてあったことが言いがかりの材料の一つとなった。これは徳川家康が前右大臣・豊臣秀頼が右大臣であり、その文字のイメージから武士である家康に「右僕射」を用い秀頼には「右丞相」を用いたことに起因している。[要出典]
  3. ^ 藤原仲麻呂権勢期に置かれた紫微中台の名称はこれに由来している。[要出典]
  4. ^ 院政期の左大臣である藤原頼長の日記を『台記』というのはこのためである。[要出典]
  5. ^ 院政期の内大臣である中山忠親の日記を『山槐記』というのはこのためである。[要出典]
  6. ^ もっとも、大臣家からはそれほど大臣は出ず、まれに羽林家名家からも出たことがある。[要出典]

出典

  1. ^ 徒然草』 二百十四段 「想夫恋といふ楽は」。
  2. ^ 源平盛衰記』 小松殿教(二)訓父(一)事 には「所謂、重盛など暗愚無才之身を以、蓮府槐門の位に至る」とある。彼は内大臣まで進んだ。
  3. ^ 石村 (1978), p. 47.
  4. ^ 大津 (2009), p. 127.


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