地方病 (日本住血吸虫症) 日本住血吸虫症撲滅の影響と評価

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地方病 (日本住血吸虫症)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 03:56 UTC 版)

日本住血吸虫症撲滅の影響と評価

冒頭で記述した通り、山梨県で地方病と呼ばれた日本住血吸虫症は限定的とはいえ日本国内の他地域でも流行が見られたが、日本国内ではいずれも20世紀終盤に制圧・撲滅され、終息している。しかし、アジア各地では2017年現在も日本住血吸虫症に苦しめられている地域があり、住血吸虫症全般を含めると開発途上国を中心とした世界各地に感染流行地がある。

地方病撲滅に至る日本国内有病地間での動向

筑後川流域での日本住血吸虫症撲滅に大きな役割を果たした[† 49]筑後大堰
宮入貝供養碑。久留米市宮ノ陣。
(2014年12月6日撮影)

山梨・広島・福岡・佐賀など日本国内各地における日本住血吸虫症対策は、研究者間や医師間のレベルでは各種論文をはじめとする学術的観点から地域を越えた交流があり、解明期当初より活発な意見交換などが行われ、当疾患の原因解明に大きく寄与したことは前述した通りである。しかしその一方で、主に地域農民により行われた殺貝作業など、現場の住民同士の意見交換が重要な民間レベルでの交流は戦前まではほとんど行われず、それぞれの地域ごと対策がとられていた。民間レベルでは通信、移動、情報の発信といったインフラは貧弱な時代であった。

山梨で「地方病」、広島で「片山病」、福岡で「マンプクリン」と、離れた場所でそれぞれ別の名前で呼ばれ[264]、さらに中国では「シーチチュン(血吸虫病)」と呼ばれていた奇病が実は同じ病気であったと解明されたのは、研究者の努力もさることながら、情報伝達技術・交通機関の発達といったインフラ整備によって多くの人間が情報を共有できるようになったことも大きな要因である。

戦後の混乱も落ち着いた1953年(昭和28年)12月、山梨県、佐賀県、福岡県、広島県、岡山県の5県知事が日本住血吸虫症の有病地知事会を結成し、研究成果の交換などを申し合わせ[265]、1960年(昭和35年)各県有病地の市町村長、行政関係者が初めて一堂に会し、当時の韮崎市長浅川彦六を初代会長とする日住病全国有病地対策協議会を発足させた[266]

第1回の会合は甲府市の舞鶴会館で行われ、各県が毎年持ち回りで協議会を開き、有病地の視察、対策や国への要望事項の取りまとめなど、互いに励まし助け合っていくことを誓った[267]

この第1回会合視察の際に、果樹園に転換された甲府盆地の土地利用を見た福岡県の職員は感心すると同時に、乳牛を放牧している久留米市長門石町内の筑後川河川敷を思い出し、もしやと思い福岡へ戻った。河川敷を調べると案の定大量のミヤイリガイを発見、しかもその半数以上がセルカリアに感染していることが判明した。結局この河川敷は1965年(昭和40年)までに、ゴルフ場テニスコートなどに土地改良され、筑後川流域でのミヤイリガイは完全に絶滅された。福岡の関係者にとって、甲府盆地での土地利用視察が福岡における本疾患撲滅に繋がるエポックメイキングな出来事であった[268]

日住病全国有病地対策協議会は発足以来、関係各省庁への積極的な陳情を行い、寄生虫病予防法改正(水路コンクリート補助事業の期間延長)をはじめとする撲滅活動推進を果たし、各地の対策事業が落ち着いた1982年(昭和57年)5月27日、甲府古名屋ホテルで開催された第23回大会において解散が宣言され、その活動を終えた[269]

日本国外への波及

日本国内の日本住血吸虫症が撲滅された今日もなお、アジア各地[† 2]では本疾患に苦しめられている地域がある。日本国内における日本住血吸虫症研究および撲滅活動が、アジア各地の本疾患流行地に与えた影響は大きい。

中国

周恩来

日中国交正常化以前の1955年(昭和30年)11月4日、東京大学附属伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)助教授の佐々学(さっさ まなぶ)[270]は、日本人医師20数名から構成された訪中医学団[† 50]のメンバーの1人として中華人民共和国首都北京を訪れ、中国側の医療関係者および要人と会談を行った。

会談の冒頭、建国したばかりの中華人民共和国政務院総理であった周恩来から、「本日、私は日本からお越しの皆様に、どうしてもお聞きしたいのです。その病気はシーチチュン(血吸虫病)といい、中国人民の健康を損なっている最大の敵であります。今回の会談はそれを力点に置きたいと思います[272]」と話題が発せられ、訪中メンバーの中で寄生虫疾患を担当していた佐々は驚いた。周恩来が口にした血吸虫病とは日本住血吸虫症のことであった。周によると、住血吸虫病の流行地帯には二億人が住んでいた[273]

また、周恩来は「発見者の名前をとってミヤイリガイ」、「この貝が中間宿主です」など、寄生虫学者でもなければ返答できないような会話を佐々とこなし、同席した日本の医師団を驚かせた[274]。一国の首相が日本で解明された寄生虫病の経緯を調べ上げ詳細に把握しているのは、それほどまでにこの病気が中国にとって深刻なものであることの証左でもあった。

佐々は会談直後、周恩来の計らいにより、北京医学院教授の鍾恵潤を案内役に紹介され、訪中医学団一行と一旦別れ、中国政府要人用の特別車両が連結された列車[275]により10日間の日程で、江蘇省湖北省浙江省広東省福建省といった流行地の視察を中国側の関係者と行った。南京では国立の医学研究所を見学し、無錫では江蘇省血吸虫病予防処を訪れた[276]

その後、国交正常化を待たずして、日本の関係者による中国でのミヤイリガイ殺貝やスチブナールによる治療、用水路のコンクリート化実験などの援助、技術提供など、日中間での意見交換、協力関係は続いていくことになった[277][278]

フィリピン

日本住血吸虫症のフィリピンの11歳少年。南アグサン州にて2005年撮影。

アジアでのもう一つの日本住血吸虫症流行地フィリピンでは、ビサヤ諸島の貧困層を中心に蔓延している。2016年現在ではスチブナールに代わり有効な駆虫薬となっているプラジカンテルの投与を、貧しさゆえに受けられない罹患者に対し、政府開発援助 (ODA)、非政府組織 (NGO)、国際協力機構 (JICA) などの機関、組織を通じて日本人医師が治療および現地医師への指導に当たっている[12][279]

市立甲府病院。2010年11月19日撮影。

その一人である市立甲府病院の林正高は、フィリピンでの日本住血吸虫症治療に使用するプラジカンテル代金(1人当たりの薬代、日本円に換算して約700円)、1口700円の募金活動を始めた[280]1987年(昭和62年)12月に「地方病に挑む会」として市立甲府病院内に発足したこの活動は、発起人の1人である大岡昇平が、中央公論1988年(昭和63年)1月号に執筆寄稿した『日本住血吸虫 - レイテ戦記・補遺』の執筆代金全額が募金の第1号になるなど注目が集まり、1口700円とはいえ、発足から15年間で約8919万円もの浄財が集まった[281]。この病気に代々苦しめられてきた甲府盆地の人々は、今なおこの病に苦しんでいる人がフィリピンに多数いることを知ると、自らの過去を重ね合わせたのである。

満州(現在の中国東北部)出身で長野県諏訪市で育ち信州大学医学部を卒業した林が、1964年(昭和39年)に新人医師として初研修に訪れた地が偶然にも甲府であった[282]。何の予備知識も持たないまま、そこで初めて出会った地方病患者に衝撃を受け戸惑いながらも、以後この病を自らのライフワークと決め、甲府に自宅を購入し移住してまで闘い続けた林は、募金振り込み用紙の通信欄に寄せられた暖かいメッセージを読み感慨を深くした[283]

フィリピン国内の日本住血吸虫症有病地における罹患率は、1981年の10.4%から1995年には約5%と半減させることに成功し、当時のフィリピン共和国厚生大臣、ジェイム・Z・ガルベズ-タン (Jaime Galvez-Tan)[† 51][† 52]より「地方病に挑む会」代表の林は感謝状を受け[286]、2009年(平成21年)にはノバルティス地域医療賞を受賞している[287]

後世へ語り継ぐ撲滅の歴史

マンソン住血吸虫症の治療を受けるエチオピアの子供。2010年10月19日撮影。
住血吸虫症によって失われた、人口10万人あたりの障害調整生命年 (DALY) マップ(2004年)。WHO統計による。
  データなし
  10未満
  10-25
  25-50
  50-100
  100-150
  150-200
  200-250
  250-300
  300-350
  350-400
  400-450
  450以上

住血吸虫症は日本住血吸虫症以外にも、インドシナ半島のメコン住血吸虫症、アフリカ大陸および中南米一帯のビルハルツ住血吸虫症や、マンソン住血吸虫症など、世界各地に数種存在する。今日ではこれらの住血吸虫症でも、画期的な駆虫薬プラジカンテルによる治療が普及したことによって、生命に関わるような重篤な患者は減少しつつある。終息宣言から20年以上経過した日本国内では日本住血吸虫という言葉を知る人も少なくなり、三省堂の辞書編纂に携わる編集委員のひとり飯間浩明は、日本住血吸虫という言葉を他の数百語とともに三省堂国語辞典の最新版から削除したと2017年(平成29年)に語った[288]

しかしながら、2015年のWHO(世界保健機構)の報告によれば、住血吸虫症の流行国は78カ国、そのうち感染リスクの高い国は52カ国に及ぶ。推定感染者数は約2億6100万人に達し、2014年には全世界で4000万人が住血吸虫症の治療を受けたと報告されている。特に、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国では、2015年現在も年間推計2万人から20万人[† 53]が住血吸虫症により死亡したと推計されている[8][9]

山梨県で終息宣言が出された2年後の1998年(平成10年)5月に、イギリスバーミンガムで行われたバーミンガム・サミット(主要国首脳会議)の席上で、橋本龍太郎首相(当時)は、世界規模で寄生虫対策を実施する必要性を訴えた『21世紀に向けての国際寄生虫戦略 - The Global Parasite Control for the 21st Century』と題する報告書を各国首脳に提示した[289]橋本イニシアティブ (Global parasite control initiative of Japan (Hashimoto Initiative))[290][291]と呼ばれるこの報告書は、アメリカコロラド州デンバーで前年に開催されたデンバー・サミットのG8会議において、世界規模で寄生虫対策を行う重要性を橋本が指摘し、対策が具体化したものであり、デンバー・サミット後、橋本の指示を受けた日本の厚生省は、辻守康杏林大学医学部教授を委員長とした「国際寄生虫対策検討会」を組織した[292][293]

橋本イニシアティブが出された後、日本の寄生虫学研究者や医師らの多くが寄生虫疾患対策のために世界各地へ出向き、その対策や治療、中間宿主貝撲滅活動などが継続的に行われている[294]。また、日本国内においても住血吸虫症の治療に関する研究が継続的に行われており、プラジカンテル等の駆虫薬を用いた感染後の治療に主眼点をおいていた従来の治療法に代わる新たな試みとして、ヒト宿主との相互作用に直接関与し、ヒトの免疫応答に重要な機能を果たしている可能性がある日本住血吸虫本体(膜表面)および分泌性のタンパクの同定に長崎大学熱帯医学研究所が2014年(平成26年)に成功し、これらを遺伝コードする遺伝子族が特定されるなど、日本住血吸虫症に対する予防ワクチンの開発研究が進められている[295]

日本が世界の寄生虫対策の舵取り、イニシアティブをとる理由は、日本がさまざまな苦難を乗り越え、日本住血吸虫症ばかりでなく、数々の寄生虫病を制圧してきた経験を持つ公衆衛生先進国だからである[296]

以下、寄生虫学者である自治医科大学名誉教授石井明[297]が2005年に記した、「日本における住血吸虫研究の流れ」より引用する。

日本住血吸虫症は住血吸虫感染症の中で最も重症である。日本住血吸虫を発見した後に、その感染経路、中間宿主貝を発見したのは住血吸虫感染の中で日本が最初である。住血吸虫症が制圧されたのは日本が世界で最初である。住血吸虫症は世界の寄生虫感染の中でも重要な位置を占めている。したがって日本が日本住血吸虫症を制圧したことは誇るべき先駆的で歴史的な事実となった。これには日本の研究が大きな役割を果たしたことを記録しなければならない。研究論文は莫大な数に上がっている。日本語で書かれたものが多いので必ずしも世界に十分に知られているとは言えないが、それらの成果がもたらした結果が日本住血吸虫症の制圧に至ったことを明記する必要がある。

— 日本における住血吸虫研究の流れ。2005年 石井明[298]

世界には日本住血吸虫症だけでなく、さまざまな住血吸虫症があるが、日本は日本住血吸虫症のメカニズムを世界で初めて解明しただけでなく、撲滅・制圧を成し遂げた世界唯一の国である。その中心的役割を担った山梨県では、2005年(平成17年)に開館した山梨県立博物館の常設展示に「地方病」に関するコーナーが設けられ、中巨摩郡昭和町では、旧杉浦医院の建物を利用した地方病資料館(風土伝承館杉浦醫院)が2010年(平成22年)に開館した[299]

また、山梨県内の小学校・中学校で使用される道徳教育教科書に「地方病」撲滅の経緯が記載され[300][301][302]、2012年(平成24年)より総合的な学習の時間を利用した「地方病」に関する授業学習が一部の小学校で行われ[303][304][305]、さらにNHK教育テレビで放送された小学校4年生向けの番組NHK for Schoolで取り上げられるなど[306]、地方病撲滅に至る経緯や得られた経験を、後世に伝えようという活動が行われ始めている[307][308]


注釈

  1. ^ 広辞苑』には「日本住血吸虫病(にほんじゅうけつきゅうちゅうびょう)」として掲載されている[2]
  2. ^ a b アジアにおける日本住血吸虫症の分布は撲滅された日本を含め、中華人民共和国フィリピンインドネシアの4カ国(厳密には台湾でもかつて分布が見られたが、ブタイヌ等の感染は認められたものの、ヒトへの感染事例は未確認である)であるが、このうちインドネシアでの流行地は小規模なものでスラウェシ島(旧称:セレベス島)中部にあるLindoe湖西岸の3か村(人口約1,500人)に有病地が確認されている。ただしスラウェシ島の大部分は未開発の熱帯雨林であり、未発見の日本住血吸虫症有病地が存在する可能性も指摘されている[4]
  3. ^ 日本は日本住血吸虫症 (Schistosomiasis japonica) を撲滅した世界唯一の国である[12]
  4. ^ 北相馬郡高野村(現:守谷市)、利根川下流対岸の印旛郡氾濫原一部[14]
  5. ^ 北葛飾郡彦成村(現:三郷市)、旧北豊島郡赤塚村および志村(現:板橋区)の非常に限られたごく一部[14]
  6. ^ 富士市沼津市にまたがる湿地帯の周辺[16]
  7. ^ 片山地区と県境を接した岡山県旧小田郡大江村(現:井原市)西代地区、当地では西代病(にしだいびょう)と呼ばれていた[17]
  8. ^ 流行末期の1977年(昭和52年)の段階ですら、厚生省(当時、現:厚生労働省)によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は、日本国内の日本住血吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。泉 (1979) P.44
  9. ^ 日本国内の他の流行地でも日本住血吸虫症とは呼ばず、独自の呼び名で呼ばれていた。広島県福山市片山地方では「片山病」、筑後川下流域の福岡県久留米市周辺では「マンプクリン」、筑後川対岸の佐賀県では単に「奇病」と呼ばれていた。ただし、病原が解明された後に、福岡、佐賀の2県では、住血吸虫の英名 Schistosoma を略した「ジストマ」と呼ばれるようになった[23]
  10. ^ 近代の中巨摩郡東部の呼称。現在の甲斐市、中央市、昭和町一帯。
  11. ^ 野午島ではなく野牛島と書いて「やごしま」と読む難読地名で、現在の南アルプス市(旧八田村中央部)の地名。能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、赤牛を貸し主とする椀貸伝説が伝わる池としても知られる。当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。
  12. ^ 現在の甲斐市の地名。甲斐市龍地。
  13. ^ 現在の韮崎市旭町および大草町付近。
  14. ^ 着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。
  15. ^ 『死体解剖御願』は当時の農民にしては記述内容の知的水準が高く、毛筆の筆跡も達筆であったことから、なか本人の承諾を得た上で吉岡をはじめとする関係者によって書かれた可能性が指摘されている。林 (2000) pp.73-74
  16. ^ 執刀した下平は、おびただしい虫卵を目の当たりにし「その原虫を発見せざるが故に十分の判定下し難きも、本病はおそらく一新寄生虫の所為に期すべし」と述べている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.10
  17. ^ 酒精(エチルアルコール)に浸けられ、山梨県立病院に保存された。当時、ホルマリンは未だになかった。小林 (1998) p.39
  18. ^ 三神内科は2017年現在も同所(甲府市大里町)で開業する三神医院である。2017年現在の同医院院長三神柏は三神三朗の孫に当たる。
  19. ^ 三神脳外科内科医院の中庭に、『明治37年7月30日此の地に於て初めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗』と書かれた銅版がはめ込まれた石碑が建立されている。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32
  20. ^ 官報6337号に記載された桂田の報告によれば、2回目の猫の解剖日時は7月25日となっているが、ここでは発見地にある石碑碑文に記載された7月30日を発見日とした。
  21. ^ カットー医師をドイツ人とする文献も存在するが、当時のシンガポールはイギリスの植民地であり、カットーはシンガポールに検疫官として赴任していた。小林 (1998) p.69。
  22. ^ 十郎川の通称「深マチ」という場所(現:山梨英和大学南方、国道140号横根跨線橋付近)で、約100坪ほどの水面を利用して動物実験が行われた様子が横根町在住の秋山丈吉により1977年に証言されている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.167
  23. ^ 発見した水路の所在地を、酒井地区の北隣に位置する現鳥栖市曽根崎町とする資料(NPO法人宮入慶之助記念館しおり)もある。
  24. ^ ミヤイリガイの学名は、Katayama(後にOncomelanianosophora"カタヤマガイ(別名ミヤイリガイ)"日本のレッドデータ検索システム 2014年4月13日閲覧
  25. ^ 山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、p.56、より一部改変作成。
  26. ^ 東山梨郡:岡部村、(春日居村は検診未了)。
  27. ^ 西山梨郡甲運村住吉村朝井村山城村里垣村国里村清田村相川村千塚村
  28. ^ 東八代郡富士見村石和町上曽根村下曽根村豊富村
  29. ^ 西八代郡上野村
  30. ^ 中巨摩郡:貢川村西条村国母村大鎌田村二川村稲積村三町村常永村小井川村花輪村忍村池田村玉幡村今諏訪村田之岡村御影村百田村大井村五明村藤田村鏡中条村南湖村、(松島村竜王村は検診未了)。
  31. ^ 北巨摩郡:登美村塩崎村竜岡村更科村神山村大草村旭村
  32. ^ 最後に日本住血吸虫症の発症が確認されたのは韮崎市内であった。林 (2000) p.80
  33. ^ 山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、p.51、p.105、より一部改変作成。
  34. ^ 三神三朗は自ら率先して、甲府市立国母小学校、同市立貢川小学校の校医を務め、初期感染患者の発見、早期治療に貢献した。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.174-177
  35. ^ 冊子の表紙に記された題名にはルビがふられており、「俺」は「わし」と読ませることがわかる[152]
  36. ^ イラストとストーリーは懸賞により募集された。山梨地方病撲滅協力会 (1977) p.21
  37. ^ ミヤイリガイはセルカリアに感染していなければ安全であるが、撮影場所は伏せる。画像GPSデータは除去済。
  38. ^ 生石灰使用量は、1年目と2年目はそれぞれ225トン、3年目は375トン、4年目は1170トンであった[191]
  39. ^ 甲府市内は1945年(昭和20年)7月の甲府空襲により焼け野原になり、辛うじて残った山梨県庁舎などもGHQによりすでに接収されており、復興ままならない1947年(昭和22年)当時では、研究所として使用可能な建造物がほかになかったためだといわれている。小林 (1998) p.154
  40. ^ 写真は中巨摩郡昭和町上河東、正面に見える山は八ヶ岳茅ケ岳
  41. ^ 岡部浩洋はその後の1949年(昭和24年)に、久留米大学に設立された日本住血吸虫症研究機関の初代会長として同大学の教授に就任した。
  42. ^ 写真は中巨摩郡昭和町押越、設置年度と施工業者名、延長が記載されている。
  43. ^ コンクリート化の立法化は後に厚生大臣を務めた山梨県選出の内田常雄議員が働きかけたのだといわれている。林 (2000) p.80
  44. ^ 山梨県では1986年以降、皮内反応をELISA法に切り替え、虫卵抗原に対するELISA陽性者に対しMIFC法による検便を実施してきたが、保卵者は発見されなかった。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.34-35
  45. ^ 国の天然記念物であった「鎌田川ゲンジボタル」指定石碑(昭和町押越)の隣に2002年12月に建立された。その後2010年の風土伝承館杉浦醫院オープンに伴い杉浦醫院の庭に移設された。石碑の下部には医院の屋根に使用されていたが、終息に要した年数と同じ115枚並べられている
  46. ^ 2月13日の答申をもって、翌週2月19日に終息宣言が出された。
  47. ^ 日本住血吸虫を感染させたマウス-Youtube (2012年12月24日閲覧)ホルマリン標本容器に、感染日2011年4月25日(40〜45隻)、標本作成日2011年9月3日 (18W) の文字が確認できる。
  48. ^ 臼井という地名は、2016年現在もリバーサイドタウンの近辺に臼井阿原として残っている。
  49. ^ 筑後大堰管理所は、筑後大堰によって湿地帯がなくなりミヤイリガイ撲滅をもたらしたとしている[262]。その一方で、筑後大堰は日本住血吸虫症の拡大を引き起こすとして建設差止訴訟を起こした市民もいる。大堰から他地域へ導水されることを挙げ、感染拡大に繋がることを差止理由の一つとしたのである[263]
  50. ^ 臨床医でもあった福井県選出の日本社会党所属議員らによって組織された[271]
  51. ^ (英語)Jaime Galvez-Tan 2016年5月4日閲覧
  52. ^ 肩書、呼称は 林 (2000) p.7に従った。この人物は「ハイメ・Z・ガルベス・タン」[284]、「ハイメ・ガルヴェス・タン」[285]と表記されることもある。また、一般にはフィリピンの厚生省は保健省、大臣は長官とも呼ばれる。
  53. ^ 住血吸虫症による病死は死因が多様であるが、death.1番号として「住血吸虫症状」で一括りにされるケースが多いため、たとえば、肝臓や腎不全と膀胱癌のような隠された病理の推定をすることは困難である。したがって死因見積もりは、年間20,000から200,000人の間で大きく異なる。

引用

  1. ^ 中富町は富士川中流に位置しており、甲府盆地から離れている。しかし1954年(昭和29年)、ミヤイリガイが同町内の切石・八日市場・飯富の3地区で生息しているのが発見され、罹患者も発生した。これは大雨や台風など洪水により上流部の甲府盆地からミヤイリガイが流され繁殖してしまったものと考えられた。同様に1961年(昭和36年)には県境を越えた静岡県の富士川町でも16名の日本住血吸虫症患者が発生し、町内の溝渠にミヤイリガイの生息が確認された。これも上流部の甲府盆地や中富町のミヤイリガイが富士川を流れてきたものと考えられている。泉 (1979) pp.76-79

出典

  1. ^ 泉 (1979) pp.73-74での現代訳から一部改変引用。死体解剖御願、原文、以下引用。山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、pp.118-119より。
    死体解剖御願
    西山梨郡清田村第弐百拾六番
    戸主 杉山源吉養母
    杉山なか
    当五拾四年
    私儀太平ナル御代ニ生存スルコト已ニ数十星霜ヲ経過スルモ素ヨリ無教育ナルヲ以テ未ダ曽テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼザルニ一朝病ノ為不帰ノ身トナランコトハ遺憾至極ト存候然ルニ不幸ニモ昨二十九年六月頃ヨリ疾病ニ罹り悩ムコト甚シ、依ツテ早速ニ某医ヲ迎ヘ診ヲ乞ヒタルニ病名サヘ指示セザルヲ以テ其后又二三某医ヲ乞ヒタルニ是又前同様莫トシテ一ツモソノ要領ヲ得ズ、遂ニ荏苒時日ヲ経過シ同年十一月ニ至ルニ病勢ハ漸々増進スルノミニテ毫モ減退セザル故最后諦メノ為同月下旬貴院ノ温厚篤実ナル御診察ヲ仰ギ充分ナル御鑑定ヲ得タルニ豈図ンヤ当地ノ近傍有名ナル地方病ニシテ未ダ病原ノ発見セダル最モ恐ルベキ疾病ナリ、是迄数多ノ該患者発見スルモ病原不明ノ為十中八、九ハ鬼籍ニ転ヅルノ不幸ニ接シタリト、妾事モ発病臥床最早殆ト一ケ年間ノ敷ニ及ブモ素ヨリ病原不明不治ノ病ナルヲ以テ如何ニ先生ノ百方御尽力且ツ御治療ヲ受クルモ日々衰弱ヲ増進スルノミニシテ到底恢復ノ見込無キハ勿論不日死亡ノ不幸ニ陥ルハ目前ナルヲ以テ、死后ハ是共貴院ニ於テ解剖被成下充分ノ病原発見セラレ以后該地方病ニ罹リ悩ム処ノ数多ノ諸氏ヲ助ケ、医学上永遠ニ妾ノ寸志ヲ遺保セランコトヲ懇願至候。依ツテ本日ヲ以ツテ戸主夫幷ニ親属〔ママ〕立会連署ノ上御願申上候也。 明治三十年五月三十日
    右戸主 杉 山 源 吉
    右夫 杉 山 武 七
    右本人 杉 山 な か
    右親属(原文ママ) 向 山 太 平
    右親属(原文ママ) 戸 沢 近 太 郎 — 杉山なか 『死体解剖御願』 1897年5月30日
    注釈:この文中にある妾とは日本語の一人称代名詞#妾(わらわ)の意味である。
  1. ^ 1917年(大正6年)発行の小冊子『俺は地方病博士だ』でも、地方病は人口の減少や発育不良を招く病であると説いており、
    だから地方病は貧國弱兵病だ。こんな病氣が蔓延て來ると國が貧乏になって弱くなって、獨逸どころか支那と戦争も出來ない樣になるかも知れない。
    だからこんな病氣の蟲は早く退治して仕舞ねばならぬ。 — 『俺は地方病博士だ』pp.4-5
    としていた。
  2. ^
    昔から「病は口より入る」と言ふ諺があるが地方病では「病は皮膚より入る」と言ふのが正しい。決して口からは入らぬ。
    何でも病蟲の居る水の中へ三四十分間入って居ると、病蟲はチャンと皮膚を喰破つて身體の中へ入るのだ。 — 『俺は地方病博士だ』p.5
  3. ^
    病氣の研究が出来て原因がわかつたから、豫防する事も駆除する事も知れてるが、困た事に實行が困難だ。
    一人や二人が幾ら心配して駆除しやうとしても駄目だ。どうでも其地方の人が全體で力を協せてやらねばならぬ。 — 『俺は地方病博士だ』p.11
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